クソマミレンの愚痴

30超え職歴なし長期引きこもり明けのダメ人間がクソ記事を量産

日本の公園で日本人が捨てたゴミを拾い集める外国人

先日、日が暮れようとしている時分、俺は代々木公園園内トイレで小便を垂れていた。すると突然スキンヘッドの外国人がトイレに入ってきて、おもむろに洗面台の上に放置されていたビニール袋を手に取り、結ばれていた取っ手を解きオープンな状態にして片手に携え、トイレをそのまま後にした。その無駄のない理路整然とした動きを俺は洗面所で手洗いしながら横目で把捉していた。

 

一体何をするのかと思いきや外に出るとその疑問はすぐに解消されることとなる。

彼は道端に落ちているゴミを拾ってはビニール袋に入れ、拾ってはビニール袋に入れを繰り返し、園内を原宿方向に移動していた。要するにゴミ拾いをしていたのだ。

代々木公園を外れたあとも彼のゴミ拾いは続き、原宿へと向かっていった。

 

日本人が捨てたゴミを拾う外国人。

その光景に薫陶し、日本の一公園にこのような感心せざる終えない行為をする異邦人が降臨したと言えば聞こえがいいが、彼が単なる代々木公園の係員だったかもしれないし、ボランティア団体の構成員だったかもしれない。観光客だとしてもわざわざ観光に来た先の公園でゴミ拾いをする奇特な人間は好事家と揶揄されるかもしれない。いずれにせよ彼の素性を判断するメルクマールはなく真相は彼自身に問うてみない限りわかるはずもない。

 

しかしながら、これは外国人というフレームに入れて判断するからこのような神聖視が可能なのであって、人間というフレームに入れれば人がゴミ拾いをしている何ら物珍しくもない光景へと変容するのである。

 

人間が親カテゴリーだとすると外国人は子カテゴリーだ。男と女を子カテゴリーだとすると孫カテゴリーになるかもしれない。

 

特定の子や孫カテゴリーにフレームを設定することは、ややもすればこのような思考に陥りがちだが、それは度々視野狭窄を引き起こし、レッテル貼り、勘違い、思い込みなどに形を変えて現出する。

 

例えば女にしても、女という「子カテゴリーフレーム」に入れるのではなく、人間という「親カテゴリーフレーム」に入れることで、美と男に耽溺する愚かな徒花と見ている女に対して俺が抱く肉便器的発想をコペルニクス的転回により、「女」から「人間(女性)」へと思考の軸を遷移させ、脳内革命(抜本的思考転換)を起こすことで、俺が将来危険視する性的倒錯や交雑といった性的異常行動を回避する蓋然性が生まれる。

 

結局のところ、俺は「人間」と「女」という2つのフレームの狭間で悩み苦しんでいるような気がしてきた。

女=バカな肉便器と便宜的に定義付けしている今の俺だが、女という「画」を女フレームという額縁から人間フレームという額縁に差し替えてみれば、女という理解不能な生き物の淵源を探求するにあたり、また違った考察が可能かもしれない。