コペルニクス的転回を思いついた。
昨日のDQNのことだ。
渋谷の乱痴気騒ぎで街を行く大部分の人間が浮かれてキモい声で騒ぎ出すキモい男とか見たが、当たり前だが単なる通行人で赤の他人である俺には全く無関心だ。
それらの人にとって俺は背景の一部。関心など払っていないし興味もない。
しかし、このDQNだけがヘイトを発していたとはいえ、俺を認識しコケにした。
俺に興味を示した。
まぁ渋谷のゴミであることに何ら変わりないが。
無関心と悪意。悪意があるということは意がある。俺に対する何らかのアクション。赤の他人からそんなアクションを起こされるなんてこともここ10年位なかった。それくらい誰とも接してこなかった。だから、悪意に懐かしさすら感じた。
無関心よりも悪意のほうが俺にとっては新鮮なことは否定できない。
街を歩いているとそこにあるのは俺への無関心だからだ。皆一様に。
たまに視線を感じるが、俺が○○に似ているからだろう。それで心のなかでほくそ笑んでいるんだろう。勝手にほくそ笑むがいいさ。そして身内のバカ話の酒の肴にでもするがいい。
しかし好意を持たれるなんてことは今までで数えるほど、しかも幼少の頃の記憶だけだ。
高校までは悪意には定期的にでさらされていた。
大学に進学すると無関心へとそれは転化した。
コミュニティーの数が一学級(クラス)から一大学となるため、固定化された仕切りがないゆえ、自分から積極的にグループに介入しないと簡単にはぐれることができる。俺は昔から○人組つくってーと言われればボッチになるタイプ。そんな俺のような端数のあまりものたちを集めて先生がメンバーに入り○人組の体をなすなんてことだらけだった。でも端数がオレ一人だった場合もある。どうしたかは思えてない。
俺は誰にも関心を持たなかった。好意も。だから人から関心も興味ももたれるなんてことは期待できないのだ。大学に限らず。高校までに時折話すクラスメートはいたが、きっかけはすべて向こうからで俺から積極的に話しかけたことなど一度もなかった。ただの一度もだ。
愛されるためには、愛さなければならないということだろう。世の中の大半の人は。
みな育った環境がよかったのか、それなりにうまく渡って行けているようだ。普通の人は。
でも俺の場合、環境に恵まれなかった。猜疑心の塊であるこの俺が普通の人と同じく振る舞おうとしても結局は無理が出てくる。どうしても。苦しみながらの人間関係。
そして自分の意図通りにならなかったら、結局踊らされていただけかと自己憐憫に浸る。
自分としてはそいつらの友達のつもりでいたが、実は除け者にされ晒し者にされていた、あるいは、全くの無関心だった。こんな屈辱を味わったことはないだろうか?
ところで、アイドルとかは、愛されたくないのに愛されまくっている。自分のファンに。
そして影でキモいキモいと陰口を叩いている。
それにしても愛するために愛されたいという坂口憲二のドラマがあったが、タイトルの意味がわからない。
愛されたいために愛したいなら、愛されるためには愛さなきゃいけないんだなぁという格言めいたメッセージを汲み取ることができるが、愛するために愛されたいって過去になんかトラウマでもあったんじゃないかと勘ぐってしまう。
それがそうタイトルをつけた制作側の意図なのかもしれないが、いずれにしてもわかりにくい。というかドラマの内容自体全く知らない。
話はそれたが、愛されようとするならば愛さなけりゃならないらしい。
でも愛しようにも、幼少期から学生時代に至るまでに積み重ねられた黒い負の経験の連続がそれを阻む。
そのうち人間関係をコストで考えるようになる。
なぜどうでもいい他人に自分からコストを叩いて介入せにゃならんのかと。
だから待ちに入る。
しかし、他者から好意を伴う興味を持たれ介入されることは一切ない。道を聞くとか、俺から情報をダウンロードするための介入や昨日の渋谷のドキュンからの悪意ある興味が極稀にあるくらいだ。
過去のトラウマで疑心暗鬼になっていて、この傾向は天変地異でも怒らない限り盤石なものだろう。
そして、時代と人間に取り残されていき、10年が過ぎていく。