死ぬ時
このまま俺が変わらずに孤独を生涯貫いたとする。
そうすると死ぬ時に周りに誰もいない。
誰にも看取られずに、誰にも気づかれずに、誰の心にも残らずに死んでいくよな。
別にそれでも構わないかな。あくまでも現時点では、だけど。
葬式の時に集まった人数がその人の価値という考えがある。
しかし、価値というかその死んだ人が生前に交流した人の数にすぎないだろう。
この考え方は、人間の価値は友達の数で決まると裏から言っているものだ。
あとは、施しの数か。そいつが生前に誰かに何かを与えた数に比例するかもしれない。
与えたものは与えられた者にとって好意的なものだろう。
あとは、一緒に時間や苦楽をともにした者たちか。
要は人脈の数ということか。
人脈で有名なやまだひさしやカラテカ入江の葬式にはいっぱい人がくるのだろうか。
それともあまりこないのだろうか。
この考え方に従うと、俺は無価値となる。
誰かに施した過去も、現在損得ありなしの関係を含め交友関係はない。
一緒に時間や苦楽をともにした家族は俺が死ぬ頃にはもう死んでるし、無論人脈もなし。
そして俺は現時点での俺自身の価値は無価値と自認している。
これはなぜなのか?
それは多分周りと比べて社会の役に立つ度合いがとんでもなく低いからだろう。
自分と社会を無意識に結びつけて、価値がないダメ人間と社会常識を基点に判断している。
他人は他人、自分は自分と言い聞かせても、言い聞かせるということは無理をしているということであり、自分と他人を関連付けて考えてしまう。
これは認めざる終えない。
もし自分と他人の社会的な差を埋めようとするために、自分の身だしなみなどの外面、心構え?の内面を一定レベルに寄せていかなくてはならない。
そして、そのレベルとの乖離率が高い俺にとっては、それは大仕事であり、重い腰を挙げさせない要因ともなっている。
他人と一切関わらないで自分が価値がある人間だと自分で思えるようになるにはどうすればいいのだろう?
自分に価値を感じるには、どうしても他人が必要。
よく働いて働きぶりの評価などの、他人からの評価。
他人からの評価がない場合、例えば100m走で一位になれば、自分の価値を感じる。
でもその価値を感じることは他人がいることが前提。
他人と競う世界で自分の価値を感じられるほどの実力などない。
街を歩いていると俺の特技が俺より全然うまい奴、俺より全然積み重ねている奴を見かけることがある。そうすると自身を喪失して、自己価値診断評価が下落する。
世の中には上を見れば上がゴマンといる。
実力で価値を感じることができない以上、他人からの評価にすがるしかないのか・・・?
ナンバーワンにはなりたくてもなれない。
もとも~とと~くべつなオンリ~ワン♪って自分で思えたらどんなにいいだろう。
しかし、死ぬ時に「わが人生に悔い無し!」と思いながら死ねる人ってどんな人なんだろう。
俺は鬱になる度に別に死んでもいい気分になる。
それは別死んだところで困る人間はいないというしがらみがないからという側面もある。
志もない。故に財前教授のように志半ばで死ぬ悔しさも無念もない。
これから、人と一切関わらない生活を続けていくと、自分の価値についての自問自答が年々強くなっていく気がする。
強引に人と関わらざる終えない環境に放り込むしかない。バイトとか。
でも貯金に比較的余裕があるため、自分を不条理に満ちた社会へ放り込む必要がまだない。
また、他人はいなくても生命維持的な意味で生きていける。
食料や水や睡眠のように生きていくのに必須な要素というわけでもない。
楽だ。独りは楽だ。人目を気にせず浮浪者みたいな格好でいても何ともない。
人と関わりのない孤独世界のお気楽無職と人と関わりのある不条理世界でこき使われる労働者。
俺は前者で長く生き続けていたため、あえて後者に行くという選択は頭がおかしくならない限り選びようがないだろう。
このブログの運営者は読者に価値を与えていない。
なぜなら、まず俺が最底辺の無職だということ。
次に、ブログの内容がそんな無職の愚痴だということ。
無価値の人間が作り出す無価値のコンテンツ。
これをクソ記事量産という。