何度も記事化しているけれど俺は人との繋がりがまるでなし。
以前ヤフオクでやっていたときは薄利多売で高速回転で回していたため機械的対応で事務的に処理していたが、現在は比較的のんびりとゆとりを持ってメルカリでやっているためしょーもない質問でも自分の頭で考えて答える。
たまに昔の趣味の話で盛り上がる。
(流石にまだ身の上話まではせんけど)
認めるしかない。
このしょーもない世間話に、
心がウキウキしている。
返事はまだかとそわそわする。
PC版メルカリのロゴボタンを必要以上に押す。(F5)
人との繋がりに飢えているんだろう。
認めざる終えない。
その証拠に家族と暮らしているときは感じなかったし、家族に対してもウザいだの邪魔だの思っていたが、それから解放されて誰もいなくなって暫くは何も感じなかったが、時が経つにつれてこうなった。
悲しみは時が癒やしてくれるとよく言われている。
どんなに悲しい親の死も長い年月で失った時よりも確実に悲しみの量は減っている。
長いスパンで平均化されていくんだろう。
空虚な時間が長年続いていくと山も谷もない平野がずっと続いていくことになる。
孤独でも仕事があれば職場の人間関係に多少なりとも左右される。
でも仕事をしていないと止まった心臓の心電図のような波形になる。
こういう状態になると何のために生きているかを考え出す。そして考え続ける。
そしてこれは人間にとっておそらくは好ましくない状態。廃人に片足を突っ込んでいる。
誰からの介入もないため、他人からの何かによって傷つくこともないが、ウキウキすることもない。
それを良しとする植物のような性質の人間もいるかもしれないが、俺はそうはなれないみたいだ。
基本的に毎日面白くない。人がいないからじゃなくて、仕事がない、1日中してても全く苦にならないという情熱を伴う趣味もない。かといって失望して死ぬほどでもない。まだのんべんだらりと暮らせる貯蓄があるから。
未来に対する危機感も足りないのかもしれない。その未来は俺にとって今よりも価値の低い未来のはずだ。加齢により体力も容姿も衰えて今よりもできることが少なくなる。だから今の方が価値がある。今やれることをやった方がコスパがいい。それはわかっているんだが、それを実感することができない。できないのはイメージできないから。
それを自分自身で道を切り開くバイタリティーの人だったり、あるいは、他者からの助言等で明確にイメージ化して自分に落とし込んでいける人がうまく人生を回せるんじゃなかろうか。難関校に受かる受験生だったり、ノーベル賞とっちゃう人とか、IT系ベンチャーの青年実業家とか。(あくまでイメージ)
それができないままその日その日で精一杯なのが普通の人で、できなすぎて適当にやってた人は貧困層やホームレスなんだろう。(あくまでイメージ)
しかしメルカリで人とのやり取りを擦る際に全部文章上でやり取りすることになるのだが、このクソブログで下らない記事を量産する過程で頭のなかに思っていることを文章化する力がついた気がする。
詰まらずにスルスルとやり取りする内容を文章化することができている。
以前はビジネスもどきのコピペのやり取りをしていたが、自分の言葉でスルスル書けている。
文章化する力というよりも恥も外聞もなく稚拙でもなんでもいいや、内容が伝われば。というスタンスが構築されたことが大きい。
だから普通のビジネスマンがするようなやり取りに似せようとして無理することもなくなった。
リアルでこれができればなぁ。
メルカリは一期一会で顔も見られないからこういう心持ちでいられるという面もある。
(リアルでは萎縮しまくる。)