いままで度々このブログで書いてきたことだけど、
引きこもり時代のこと。
俺的には失われた10年とか黒歴史とかネガティブな振り返り方をしていたが、
そうとも言い切れないんじゃないかと暗黒放送を見ていて思った。
外に出て、外にいる人間の生態を観察した。
その結果、憧れや羨ましさを感じた。
以前は、女に現を抜かしおって見たいな硬派な小学生のノリでそういう感情をかき消していたが、現実には女と男で街を歩くのが人間の生命の営みに置いて正常で、それを否定するほうが無理があったということを渋々認めた。
そんな時を過ごせる貴重な若い時期を10年分潰した事への後悔などで愚痴を展開していたが、
勿論人間である以上、交流を求めるのが自然だ。異性・同性問わず。
しかし、それが出来ない人間もいる。
求めても出来ない人間もいる。
例えば交流に関して努力できない人間がいる。
それは俺。
努力できない時点で可能性はない。
つまり求めても出来ない人間。
そういう人間は一人で家に引きこもって別の楽しみを見つける。
もしも貯金が尽きて、働かざる終えなくなった場合。
バイトをする。バイト中は自分を殺す。マシンとする。
帰ってきたらこの10年で楽しかったゲームやらニコ動やらを見て大笑いする。
それでいいじゃないか。
一人なら贅沢できないけど何とか暮らせるはずだ。
それはそれで1つの幸せだし、外にいる連中とは別個の幸せと考えれば、各々が比較されるべき対象でなくなる。
10年を振り返る。
ヤフオク以外では、ゲームやニコニコ動画(俺が見出したのは2012年初頭~)のゲーム実況やニコ生の録画をアップした動画なんかを見てゲラゲラ笑っていた。
その時は心から楽しかったはずだ。
俺なりに幸せを感じていたはずだ。
楽しいだの幸せだのそういう風に感じていたはずだ。
どうせ友達はおろか、彼女、ましてはファミリーなんかもてない。
だからそこはないものねだりせず、すっぱり諦める。
外に何かを求める気持ちになったらさっき書いたこの文を再確認する。
求めても出来ない人間もいる。
例えば交流に関して努力できない人間がいる。
それは俺。
努力できない時点で可能性はない。
つまり求めても出来ない人間。
そして気持ちを精算する。
もしも70くらいになっても生きていたとする。
俺のような誰とも縁がなかった老人がインタビューを受けていて、
寂しいと言っていた。
普通に考えれば寂しいだろうね。
でも俺はゲームとニコ生(その頃にはないだろうけど)があったから全然楽しい人生ですよ、と答えたい。
そんな人生しか送れないのだから、そんな人生なりに楽しまなきゃやってられんでしょ。
俺は引きこもりなりの楽しみを見つけている。
他人との交流に努力できない以上、それで十分に思うべきなのだ。