今日は第7編アリョーシャまで読んだ。
次兄イワンの大審問官の話は近くにうるさいマウスカチカチ野郎がいて全然集中できなかったもあってか理解できなかった。覚えていればまた見返そうかと思う。
逆にゾシマ長老の過去話はすんなり入ってきた。
基本精読したら500ページ読むのに7時間かかった。
帰り道色々考えていた。
特に、修行僧と俗世。
生き方の問題。
街を歩いて常に感じる心地の悪さ。
カップルを見て胸が痛くなったりする現象の答えの1つが俗世にあるのかもしれない。
俺は俗世が非常に苦手。
街は俗の塊。
だから繁華街を歩くと気が滅入るのかもしれない。
ああはなりたくないと強く思うのも、俗世を毛嫌いしている証拠なのかもしれないと思った。
引きこもる前の幼少期から漠然とそう感じていて、大人になっていくにつれてそれは顕著になっていった。
今までこのブログで普通の人という表現をしていたが、アレは俗っぽい生き方をしている人と変換できるかもしれない。
よく彼女が欲しいという人がいる。
俺にはあの感覚がわからない。
誰でもいいのか?と思う。
俺の中では女をつくる=俗世に塗れる
くらいのイメージがある。
普通の人は生涯に程度の差はあれど複数の異性と付き合い、そのうち結婚し、子供を生む。
この流れが不思議でならない。
なぜこんな生き方ができるのか。
俺は彼女が欲しいとこの間まで思う時もあった。
それは、このまま死ぬまで一人という生き方に怯えていたからだ。
この世の中に生きる大勢の人々に取ってはある種当たり前で、世界的に普遍的なレベルにまで広く普及した考え方だと思う。
人間の欲求(ヤリたい、子孫を残したい、愛したい)に忠実な生き方でもある。
だから、そういう風に生きることは自然であり、心地の良いことかもしれない。
そんな風に分析的に考える人などいやしないだろうが。
しかし、俺にとってそういう生き方は苦痛でたまらない生き方かも知れない。
コンプレックス+引きこもり期間の長期化
が原因かもしれない。
中学の頃から異性と隔絶された空間で過ごしてきた。
大学も単位を取るために3年から通いはじめ、
誰ともしゃべらなかった。男女含め。
今思えば、大学時代の俺の行動が俺の全てかもしれない。
俗に塗れることができず、ボッチ。
女遊びもせず、ひたすら耐える。
それはまるで修行僧のような生き方じゃないか。
このまま修行僧として生き続けるか、
苦痛を覚悟して俗に塗れるか。
とにかく帰り道ずっとその事を考えていた。
そして絶望した。
俺は俗に塗れることができない。おそらくできない。
実に生き辛い。世の中は俗っぽい生き方をしている人が前提の作りをしている。
外は生き辛い。だから内にこもる。
結局引きこもりが一番自分に合っていて、外に対しては内側からも外側からも拒絶しあっているという気がしたからだ。
俗に塗れたくない。不思議な程強い拒絶が自分の中にある。
これだけは動かしがたい。
信念めいたものがある。
だから簡単には崩せない。
本当に生き辛い。
あと、アリョーシャのようにリアルで修行僧の道に進むというのも1つの選択肢に数えるようになった。無宗教者だけど。