クソマミレンの愚痴

30超え職歴なし長期引きこもり明けのダメ人間がクソ記事を量産

雨の中を散歩

結局雨の中散歩に。

普段この時間はアキバあたりを散歩しているので家にいるとどうも落ち着かない。

ということで錦糸町ヨドバシ往復。

猿江公園でカエルにとんでもないことをしてしまった。言うのも憚れるのでカット。

 

散歩中に思ったこと

・サンデル

ハーバード白熱教室のサンデル教授の授業が面白いと話題になったことがある。あのトロッコのやつ。途中で分岐があって、その先にそれぞれ4人、1人の人がいる。このままだと4人のほうに突っ込むけど、線路の切り替えスイッチを押せば4人のほうは助かるけど1人のほうが死ぬみたいなやつ。俺はひろゆきと一緒で押さない。切り替えスイッチはここまでくると人殺しスイッチだから。俺が押したことで1人死ぬ、殺したようなもんだ。押さかったら勝手に4人死ぬ。けど俺の手は介在しないなんていう感じ。もちろん車掌とか対象が家族とかだったらまた話は変わってくるかもしれない。俺が乗客の命を預かっている責任ある車掌であるとして、状況が切羽詰まってたらスイッチを押すかもしれないな。死ぬ候補の人たちについては、家族1人と他人4人だったら話は決まってるので、4人のほうも1人のほうも同じ家族だったとしたら、俺はどうするんだろう。残りの寿命(稼働年数)とか俺に優しくしてくれた、誰を生かしたほうが俺にとって得なのか?とかいう寄与度を瞬時に頭の中で計算するんだろうか。

しかしこういうときボッチが極まっていると楽(?)な気がする。俺がこのまま予定通り天涯孤独の爺になったとする。そうするともう死ぬのが4人だろうが1人だろうが、スイッチを押そうが押すまいがもうどーでも良くなってくる気がする。それこそその時のフィーリングで決めちまいそうだ。というようなことを考えた。

 

・俺が恋をしようと決意する段階にすら至らない理由

パーソナルスペースが関係しているかもしれない。横断歩道で信号待ちをしている時に隣に来る老人が「近く」て不快に感じる。それに俺の家に「目」があると不快。家族と同居してるときも居心地が悪くて仕方なかった。部屋のドアをノックされるだけで不快。誰も俺には近づかせない!みたいな「怯え」みたいなんがある。まぁそれは過去のトラウマとか長年の生活環境とか皆無だった家族以外の人間関係とかがあるんだろう。でも人間関係というのは難しいなとダイゴの動画を見て思った。近すぎても遠すぎてもいけない。遠すぎてもはわかるけど、近すぎてもだめというのは意外だったけど、これまでの俺の家庭内の出来事を見ているとわかる気がする。(ここでは言わんけど)

ダイゴの話では確かお互いのパートナーの友達と積極的に交流したほうがQOLは上がるとか離婚しにくいとか幸せになれるとか言っていた。俺の家庭の初期はそういう傾向があって正月に親戚同士集まったり近所の人ともそれなりに交流があったけど終期はそういうのもほぼほぼなくなっていた。家庭内で経年による様々な人間トラブルに見舞われそれに対する対策もおろそかにした結果俺の家庭は崩壊した。そして散り散りに。

そしてこれまでの家庭内の流れを引きこもりという実に狭い視野で見てきた結果、家庭不信になり、もう誰とも絡みたくなくなった。ちょうどよかった。俺は自分のなにもかもに対して自信がないため逃げ続けてきたので。

それに多分恋人と同棲したところで、耐えきれず爆発して逃げ出すだろう。俺が子供の時期に家族に対して抱いていたあの何もかもさらけ出せる気持ちをもう二度と誰に対しても抱けない気がする。少なくとも今の家族に対しては無理だ。だから別に会いたいとも思わないし、遠回しの呼び出しメールをよこされてはうぜーなと思ったりする。そう俺はこういう人間なのだ。もうわかりきったこと。イコール無駄。無駄な結果とこういうもんなんだ、へぇ~という経験を得るのにかかるコストは膨大で自由を奪われる・・・なんてことを考えるともうそれだけで疲れてくる。

とはいえ、それは頭の中での出来事なので、実際に行動してみないとわからない。もしかしたら覆るかもしれない。険しい道に思えてくる。こういうときはタスクを細分化することだ。小さな勝利を積み重ねる。ダイゴも言っていたし昔図書館で読んだ本にも書いてあった。

でも俺は自信がなくいつも劣等感を懐き事あるごとに卑下する(自分を)だろうし(比較で)だから「変われない」今がある意味やっぱ一番楽なのかもしれない。