最近「時間」について考えている。
若い頃はこんなことはなかった。
10代の頃は、あらゆる可能性があまりあり、無限にあるものと、また、歳を取らないものと錯覚していた。
しかし、流石にこの歳になると、無計画な愚か者のオレでも考え出す。
賢い人は若い頃からこの時間の大切さに気づいていて、人生を計画し、将来の目標に向かい邁進しているし、将来の夢がなく計画出来なくとも、勉強をし東大に入り、選択肢を広げておくという発想に至ったはずだ。
オレの若い頃はただ漫然とゲームに興じていた。
その後も引きこもりとなり膨大なタイムロスを犯し、普通の人が得られるであろうキャリアを放棄してしまった。
チャンスをかなぐり捨ててしまった。
このことは友人をはじめとする周りの人間との切磋琢磨により、気づくものだと思っていたが、読書をすることでも代替できることを知った。
堕落に導く低能な友達よりも、偉人の伝記などを読み、刺激される可能性を持つ読書のほうが有意義な時間の使い方とさえ思えてくる。
むしろそのほうが夢を見つけたり、勉強する意味を知る近道のような気がしてきた。
友だちがいない学生時代のオレはそうするのが正解だったのだが、オレはゲームでその空白を埋めてしまった。
しかし、オレのようになっていない人たちもいる。
だから、明らかにオレ自身に問題があり、オレが悪い。
人生における時間。
誕生から死去するまでの時間は無限ではない。
いつか死ぬ。確実に。
だから、時間は限られている。
でも若い頃はそれを実感することは難しい。
でも確実に生命活動をしている限り死に向かって進んでいるのだ。
自分の意志とは無関係に。
時間=寿命=命
ということは、一日一日命を削っているのだ。
だから一日を無駄に生きるべきじゃないのだ。
(まぁ、でも一日を一生懸命生きるってのも難しいんだけど。)
気づくのが遅すぎたが、誰かの入れ知恵とかじゃなくて、実感としてそう感じている。
時間=命
ということは、勉強にしても、仕事にしても、
何かに時間を使うということは、時間を消費している以上命がかかっているのだ。
例えば司法試験の勉強をするとする。
それに既に3年使ったとしよう。
そうすると人生から3年分の時間が消えていく。
3年分の命を消費したのだ。
その3年分の命と引き換えにその分野の知識や経験を得る。
これが仮に10年選手で結局あきらめて撤退したとしよう。
受からなければ結局のところ意味は無いとは言えないが、自身にとって到底納得のいく時間の使い方だったとは言えないだろう。
しかもその後司法書士なりにランクを落としたりして法律の分野の仕事に(年齢は置いておいて)就職できたらまだマシだ。
しかし、10年命をかけて取り組んできた分野と全く違う業種に就職したら、10年を無駄にしたことになる、とオレは思う。
オレは今勉強をしている。読書だけど、勉強をしている。
とりあえず、狭い見聞を広めるために色々本を読んで回っている。
ノートにも気になった事を自発的にメモするようにもなった。
命を賭けるー
これは、勉強ひとつとってみても、根性で命をかけて勉強するということではなくて、
この可処分時間=残り寿命を意識できるかどうかなんじゃなかろうか。
だから、意識できないとダラダラ勉強し続けるし、意識できると、仮にそうなってもシャキッと心を入れ替えて再始動できるんじゃないかな。