オレはいつからコミュ障になったのか。
小5の大裏切りを経験してもそれは違うクラスの奴らだったんで、同じクラスの奴らとは普通に話していた。確かに、機が弱いところがあったけど、普通に会話できるレベルだった。しかし、塾では黙っていた。完全に。
これが予兆だったのかもしれない。学校では普通だが、塾では寡黙という統一感のないキャラ。
中学に入り、中1までは良かったが、中2で知的ドキュンだらけのクラスに配属された。中1までは元気がよかった明るいデブが暗くなるレベルだ。
オレもその影響を受け、完全に寡黙キャラになった。しかしなぜかそいつらとは嫌嫌ながらもうまく付き合えていた。いじられキャラとして。(いじめられキャラじゃなくて本当によかった)
思えば、自分の内面を出せなかったことに原因があるんだろう。
昔から普通の人と感覚がズレたところがあったから、それで「?」みたいな反応を度々されたのが地味にトラウマになったのかもしれない。
考え方が独特なのか自分でもよくわからない。自分基準だから。
普通じゃないと仮定して、普通じゃない人間は普通に合わせようとすると無理が体にかかる。
面倒くさがり屋ならなおさらのこと。黙っていれば楽というわけだ。
別に自分の意見を表明する必要はない。どうせ話のないようもしょーもないくだらないものだ。
ということでコミュを放棄する。
その結果、何考えてるかわからないやつというスタンプをポンとおされる。
ああ、楽じゃん。押されたことをメリットにすり替え事なきを得る。
実際に「君、楽でいいよね。」と本質をついたことを言われたこともある。
真意か冗談かはわからないが。
そしてそのまま最低限の対応で、薄ら笑を浮かべる寡黙キャラを演じる。
幸か不幸か高校まではそれでさしたるいじめもなくやり過ごせてしまった。
大学時代はお察しください・・・。
振り返ると、面倒だというのもあったが、深層心理としては、他人から嫌われたくないとか、思想を他人に晒したくないとか、無知を晒したくないとか。それでだんだんと口数が減っていった気がする。
そんなんでコミュ障になっちまったのかもしれない。
要するにプライドが高い恥ずかしがり屋なのだ。
ちなみに家では普通に喋っている。
それから10年。
この歳になると、さらに無職というのが追い風になり、さらに縮こまってしまう。
だんだん同世代とズレていき、やがて全てにおいて面倒になり全てを放棄し、しまいにゃホームレスになるかもしれない。このまま自分の思うがままに生きていってしまうと。
教養をつけようと図書館通いをしているが、身になっているのかわからないので若干の焦りを感じる。オレは30代の働き盛りの時期にいったい何をやっているんだと。
そしてこう反駁する。今まですべき時期にしてこなかったツケが回ってきてるんだと。
無職で預金垂れ流し生活で何もしないよりはマシ。そう言い聞かせてる。
今思ったけど、もう友達を作りたいなら、同じような無職しかないんじゃないだろうか。
しかし、無職同士が街に繰り出すとして、お金をとかどうするんだろうか。
逆に考えると、妙な見栄を張らずに済むから、互いにドケチに徹することができるかもしれない。それこそ、カフェなんてご法度。ドンキやオーケーストアの安いおにぎりでも買おうぜとか。もしくは弁当持参とか。
昭和か!
昭和?
しかし、なんでみんなお弁当持ってピクニックに行かなくなったのだろう。
都会ばかり徘徊しているから視野狭窄なだけで現代社会でも地方とか辺境の地を見渡せばお弁当を持参して友達と遊んだり、デートしたり、ファミリーするのだろうか。サテンやレストランやファーストフード店に金を落とさずに。
いずれにしろ、このブログの愚痴のように思ったことをリアル世界でも言えばいいんじゃないかと思ってきてる。どうせもう失うものもない。別になんと思われても構わない。社会的な肩書の看板はとっくにゴミ集積場を経由して燃やされれている。気が楽と言っちゃ気が楽だ。とりあえず今は。