クソマミレンの愚痴

30超え職歴なし長期引きこもり明けのダメ人間がクソ記事を量産

人生一度キリ、このことが導くひとつの事実

それは、やらない後悔よりもやる後悔。

 

 人生一度切りなんだから、やりたいことをやらなきゃ損!

そう思える人間が羨ましい。

 

でもこれは、やった後悔よりやらない後悔の量が圧倒的な俺の場合。

 

勿論、真逆の発想の人もいると思う。

やらない後悔よりやっちまった後悔の方が多い人。

今まで散々、見切り発車で行動してきて算段が甘くて起業した会社潰したり、なんとなく中出ししてデキ婚してスピード離婚したりとか。そういう人たち。

その人達は借金、自己破産なり子供という負債を抱えて苦しんでいるかもしれない。

やるんじゃなかったぁ~失敗した~と嘆き、もしやらなかったらいくら貯まってたんだろう?とかもっと頭のいい女と結婚すりゃよかったぁ~とか。

 

でも、こういう人のほうが世の中多い気がする。こと人間関係に関しては。

それが世間的には普通だと思うし。

 

世界が自分の中で完結するか、他人を含めての世界で完結するか。

自分の中で完結している人は少ない。

もう俺か引きこもりくらいだと思う。

生きている過程でどうしても他人との接触が避けられないからだ。

ところが、ヒッキーや俺は幸か不幸か避けられた。

その過程で接触の機会を失い、そのツケがいつか回ってくることも知らずに。

 

失敗しまくって、何度も這い上がる人生は苦しいだろう。

でも生きている感じはするんじゃないだろか。

生きている人間の心電図のように波がある。

 

俺はここ10年は死んだ人の心電図みたいな一定の動き。

家で毎日のルーティンワーク。

死んでるみたいなもんだ。浮き沈みも何もない。

 

とりあえずやりたいことをしよう!

そう意気込んでも、興味があることが多すぎるので、1つに集中できない。一つのことに集中して、すぐに飽きて、また別の何かに集中しだす。それの繰り返し。

やりたいことはしていることに気がつく。

でも、それは自分一人でできることに限定されていることにも気づいている。

 

友達が欲しい、彼女が欲しい、性行為がしてみたい、誰かととてつもなくバカしてみたい。これらはやってみたいが、やるには相手が必要なことだ。

それをするためには、セーブしている力(心の外郭)を解放しなければならない。

 

 

あ~だめだ。こんな風に理論的に考えているようだと、程遠いわ・・・。

誰か損得利害なしに傍らで街を一緒に歩いてくれる奴が欲しい。一人でいいから。

 

とりあえず飛び込むしかないけど、傷つきたくない。

それは傷ついたことが過去にあったから出てくる気持ちだ。

 

幼少期のトラウマ・・・思ったけどこれってやっぱかなり後の人生に影響を与えている。

 

また、○人組作って~で余っていた子供が、大人になった今、社会で余って自分の家で一人でいる。

無論、俺のこと。

かと言って、今から過去にタイムリープして自分を弄ることもできない。

 

トラウマの元になったエピソードをなかったことにすることはできない。

捨てようにも捨てることができない。捨てられたらどんなに楽だろう。

それを抱えて生きていく他ない。そのトラウマが自分の行動を常に見張っていて、そのトラウマに近いことが起こると、すっと心の隙間に入り込み、精神を落ち込ませるのだ。

結局、それすら跳ね返せるように自分を鍛えるしかないんかもなぁ~。

 

こういう時、俺の目は他人に向く。

しかし、トラウマなく器用に幼少から生きてきた人間に嫉妬しても意味がないし、時間の無駄。

そもそもそんなことは外野からは伺い知れないし、外側からその人はそう見えても、俺以上のトラウマを持っていて、それと闘って勝利してきた末の振る舞いかもしれない。

 

とりあえず、この「隣の芝生は青くみえる」悪い癖を矯正することを徹底したほうがいいかもしれん。

 

これまで、自分は自分、他人は他人と思うようになった、とこのブログでも書いていたときがあったと思う。

確かに思うようになったが、まだ自分の中で雨降って地固まる状態にはなっていない。だから油断すると、何の関係もない街歩く赤の他人と自分を比べてしまう。無意識なんだろう。

 

でも何か大きな決断をする時が来ると思う。

それもそう遠くない将来。

その時にはやって後悔したいと思う。

残りの寿命をカウントしだすようなじじいになってから破れかぶれになるくらいなら、おっさん化しつつある今のほうがまだマシだろう。