今年も後わずか。
今年はちょびっと成長した。
それは、不快な出来事への回避法。
例をお一つ。
電車の中での赤ん坊。
20分くらい延々と泣きやまない時ってあるよね。
それを聞かされる身となる大勢の人々は余程の短気以外は平然とやり過ごしている。
時々、騒音源を伺いつつも。
しかし、不思議な人達もいる。
その赤ん坊を見て可愛いという人たちだ。
しかも既婚で子持ちじゃない若いカップル。
こういう素敵な感情をお持ちの方もいる。
子持ちならば、赤ん坊の泣きに対して寛容になれるだろう。
自分が同じプロセスを経ているから。
そして世の中の大部分が子持ちなのだ。
だから、赤ん坊の泣き声でトラブルが起きニュースになることがほとんどないのだろう。
逆説的に言えば、そういうトラブルの原因が人並みに到達できなかった人たちによるものが大半なのだろう。
そして、俺はそういう人間に含まれる。
心は荒んでる上に、そこまで一生たどり着くことがないであろう人間だ。
だから、赤ん坊の金切り声は俺の精神にダイレクトアタック・・・になるはずであった。ついこないだまでは。
だが、俺は考え方を変えたのだ。
我関せず。
これが最も有効な対策手段だ。
赤ん坊の泣き声をうるさく感じないように、そっちに意識を向けないように最大限の努力をする。
スマホで5CHを見ているなら、5CHに、読書をしているなら読書に、最大に集中する。
他には一切目を向けない。
ひたすら、集中する。せめて集中するように意識を傾ける。努力する。
もちろん、俺は超人ではないため、ヒカルの碁のヒカルみたいに集中しすぎて周りの音が何も聞こえなくなるくらいになることはない。
聞こえてくるものは耳にどうしても入ってくる。しかし、それについて考え、頭の中でコメントすることはしてはいけない。
そうすると注意がそっちに向くからだ。
例えば長時間泣いているのに、泰然自若としてあやすことを諦め、開き直って好きなだけ泣かせている母親というものもいる。
そういう時に、
「ああ、うるせえなぁ。あんたらのせいで周りの人間がどれだけ迷惑してると思ってるんだ。このクソ混んでるのに、ベビーカー電車に入れやがって。スペースを圧迫してるんだよ。まぁそれはいいとして、そのうるさいガキをどうにかしてくれ。少しは周りに配慮しろよ。うるさいガキとスペースを奪ってるんだからちったぁ肩身狭くしてろ。せめて少しは泣き止ますように振る舞ってくれよ、せめてフリでもいいから。ああ、うるさい。いつになったら降りるんだ。はやく降りろ。降りてくれ。」
こんな事を考えようものなら大失敗だ。
自分から進んで心を汚くして、自己嫌悪に陥るし、その汚くなった心は事が去った後も残留し、1日不快な気分が抜けない。
そして、そんな嫌なことについて時間を消費しすぎだ。
不快な事について1秒たりとも考えてはならない。
これが不快な出来事から逃れる唯一の方法であり、このことを真の意味で理解できた(実践の継続を伴う)ことが今年ちょっと成長できたことだ。(真の意味ね。このこと自体は自己啓発本に普通に紹介されている。例えばデール・カーネギーの『道は開ける』)
そう考え方を変えると、愚痴の量産危機に陥るのであった。
だから、調整する方向へとシフトしてもいいだろう。
我慢とは性質を異にする回避法だから、それくらいの余裕が出来た。