今伊豆を旅行(と言うかあただ歩いてるだけだが)をしている。
その為、普段都会を歩いているときと何ら変わりがない。
ただ違う場所で同じ行為(散歩)をしている。
都会でない大自然の風景を見たりすることは、新鮮であることには変わりがない。
しかし、何かが決定的にかけている気がする。
何か楽しくない。
潜在的な楽しさはもっとあるはずなのに、持て余している感じが半端ない。
俺に足りないものは何かを考えると、ぱっと使える金と、旅行の楽しみを同調(シンクロ)させる人間の存在ではないかと周りを見ているといやっちゅうほど伝わってくる。
もちろん、一人というのは俺のような気質の人間にとっては最も自然で自由な状態であることに変わりない。
しかし、何をするにもそうで一人で何かするってにもやっぱ限界っちゅーもんがあんだよなぁ。
一人で旅行先でただただ金も使わずに散歩していると、一体何しに俺はここへやってきたのか(高い運賃出して)という気になってくる。
そうすると楽しくないのだが、この気持ち、何かに似ている。
何のために俺は生きているんだろう?
そう考える時の気持ちと似ている。
そして、それは人生で最も考えてはいけないこと(不幸な人間ほどこういうことを考えると勝手に思っている)で、それを埋めるために何か作業に没頭したり、その蛆虫みたいな気持ちを払拭する方法だとこれまたデールカーネギーの本に書いてあった。
だから、旅行はその旅行自体に没頭し、最強に楽しまないと、こういう何しに旅行しに来たんだ俺?みたいになるんだと思う。
しかし、一人で楽しむのは難しい。
観光地(実は観光地に限ったことではないけど)で他人グループと比較しないのは自ずと無理があるし、その無理を取り去るには同類になるしかない。
つまり、誰かいる。俺以外の人間が。
その上で、全力で楽しむ。すべてを燃焼させる。
灰すら残らないほど全力で究極に楽しむ。
これが余暇のコスパ最大の過ごし方なんじゃねーの?どうよ?
でもこれって、みんな普通にやってることだよね。