クソマミレンの愚痴

30超え職歴なし長期引きこもり明けのダメ人間がクソ記事を量産

正しいと思ったことをする

 

 

見て見ぬふり。誰かが倒れている時に他の人がなんとかするだろうと見捨てたり、自分が正しいと思っている道を避けたりするときに魂が腐っていく気がする。
そのことは、自分の中に正しい心がある証拠なのかもしれない。


でも実際にいろいろなシガラミの中で自分の信じた道、正しい道を貫き通せる人なんて真っ先に淘汰されるべき人間だろう。共同体を乱す悪分子として。共同体を統治する者としては迷惑極まりない追い出すべき忌むべき存在。


自分が正しいと思っても自分以外の人間により曲げられる。
正しいことを押し通そうとすれば、そこから去らねばならない。
企業の不正、内部告発等の報道を見るとそういうことを思う。

 

最近では、ジョジョ5部でボスを裏切った時のブチャラティがまさにそれ。

オレはフーゴ。2,3日の付き合いの親しくもなんともない女を守るためにマフィアの全構成員を敵に回し命を狙われるような選択は馬鹿げている!というキャラがフーゴ。そのフーゴはパーティーを脱退することになる。

 

こんなときにブチャラティ的選択をする奴(内部告発者とか)は一時の感情にほだされた馬鹿野郎、後先考えない無謀極まりない自己陶酔の正義漢だと思っていたが、自分に嘘ついたり、行きたくない方向に行かされる。そんなことが続いていけば、だんだん正しい方向が見えなくなっておかしくなっていく。それは不幸せだ。

 

正しいと思ったからやる。
オレは手に届くことはする。
例えば誰かがものを落としたとこを発見したときは教えて手渡すようにしている。(これは今のとこ100%)最近はやっと声にだして「落としましたよ」ということができるようになった。

 

別に礼を言われて気持ちいい気分になることを目的としているわけでもなく、いいことしたなぁという達成感を味わうことを目的としてるわけではないことに気づいた。

 

自分自身が正しいと思う行動を取っているだけ。
行動を取った結果が他人が今まさにそこに落としたものを拾って届けてやるということ。
当たり前のことをしているだけなのだ。
むしろその行動を取らないと気持ちが悪い。
かっこつけかと思われるかもしれないが、本当にそうなのだ。

 

でも今はなんともちっぽけなこと。
もっと大きなスケールになると途端に縮こまって、
そういう時はできないものはしょうがないと割り切る。
自分にはできることとできないことがある。
できることの範囲にある事柄にのみ「正しいことをする」のルールを適用すればいい。
(韓国人を付き添って駅に案内したのは範囲を外れていたからものすごい疲れた。と同時にやりきった感も10倍くらいあった。)

 

スケール大きめのことは正しいと思っても行動しない。

 

途端にかっこわるくなったと思うかもしれないが、これでいいのだ。

ただ、範囲を広げられたら面白いかもは思っている。