クソマミレンの愚痴

30超え職歴なし長期引きこもり明けのダメ人間がクソ記事を量産

【ブログ日数365日】なぜブログを1年続けることができたのか?

1年やってこれ(ブログ日数365日)

f:id:kusomamiren:20180909091058j:plain

 

でも俺は1年間ブログを書き通した。
よく1年続いたもんだ。アホだ。まじで。

 

なぜ、アフィリエイトは3ヶ月持たなかった俺がこの一文の足しにもならないブログを1年続けることができたか?

 

・仕事じゃないから楽しい
このブログの収益はゼロだ。Amazonの商品紹介みたいな感じでリンクを貼ることはあるが、Amazonアソシエイトは貼ってない。楽天、アフィも同様。
なぜ金にもならないことを1年も続けたのか。

それは俺が金よりも自由を優先する人間だからかもしれない。それを許さない環境がそうさせている面は大いにあるけど。

 

・読者数、星の数を気にしない
俺は読者数、星の数を気にしない。
いや、気になるけど気にしないようにしている。
記事を書いても読者は増えないし、星ももらえないものと思っている。
むしろ、俺の恥ずべき内面を吐露しているわけだから、読者は増えないで欲しいとすら思っていた。
それに、読者数、星の数を気にしだすと、自分に制限がかかる。
読者を楽しませよう、星をいっぱい貰えるような良質な記事を提供しよう!とか気負うとプレッシャーを感じて、クソ記事を書けなくなってしまう。(そもそも書こうと思っても書けないという現実もあるけど)
クソ記事を書けなくなると、このブログで俺が目的とするストレス解消や憂さ晴らしができなくなってしまう。まともな記事を書こうと構えてしまうと仕事感も出て、俺は潰されブラックホールに飲み込まれてしまうだろう。→そしてやめる

 

・習慣化した
昔中高時代(俺は中高一貫男子校出身)の教師から3週間毎日一つのことを続けると、それは習慣になるという話を聞いた。
俺は去年の8月の終わりあたりから毎日記事を書き、習慣化した。そしてその習慣は今でも続いている。

 

・アウトプットとストレス解消
このブログの目的のひとつにストレス解消があるのはさっき述べたけど、アウトプットの練習という目的もあった。
なぜアウトプットをしようと思ったかというと、今までの自分がインプット過多、アウトプット全然足りないみたいな勉強をしていたがために、派手に受験に失敗したということがまずあって、それを反省したことと、アウトプットは大事だなということを改めて思ったため。それにインプットよりはるかにアタマを使う。

 

・クオリティーで勝負しない。
星の数、読者数を気にしないにも通じることだけど、クオリティーで時間をかけて作った記事に星がつかないと、なんで評価されないんだ!と憤慨したり、おまえら全然わかってねーなー!と読者攻撃すら始めてしまう可能性もある。
(でもちゃんとした記事を書けば☆はつく傾向にあるのもまた事実)

でも他人にとってどうでもいい自分のことを書いている身であるから、そういう期待はそもそもない。だから気楽にやれる。

 

・記事数至上主義
(内容スカスカ)記事数至上主義には何の意味もなく、記事をいっぱい作ったからと言ってそれに比例して読者がついたりすることはないということは、このブログが証明している。現時点で1500記事近くの記事がこのブログにあるが、ブックマークがついてるのは10個そこらしかない。つまり大体無価値の記事なのだ。だが、それでいい。

 

・セオリーと真逆
普通ネット記事というものは、読み手にベネフィットを与えるのがセオリーとされている。「良質なコンテンツ」の提供が至上命題とされ、それが提供できていないこのブログのようなコンテンツは淘汰される。しかし、良質なコンテンツを量産することは容易でなく、時間もかかる。
また、多くの時間をかけて自分が良質と思って作った記事も大衆からの評価は良質ではないということもある。ニーズとか大衆心理と自分の感覚の乖離幅が大きいほど、独りよがり度はアップし、評価されず見向きもされずそっ閉じされる。

このようなブログを見たら俺もそっ閉じする。読み手の立場からしたらクソだけど、書き手の立場からしたら、別にそれでいい。独りよがり上等。

 

・クソ記事を躊躇なく投稿
そんな大衆が望んでもなく、興味もない無職のおっさんの独りよがりなブログを投稿している罪悪感というのもちょっとはある。見られたら恥ずかしいし、情けないおっさんだなぁ、痛い存在だと思われていることだろう。たまにネット検索していて自分の書いた記事が思わぬ拍子で出て来るときがある。検索結果に表示された他の記事と比べて圧倒的に毛色が変わっていて恥ずかしくなる。明らかに浮いていて内容がない。とはわかっていつつも躊躇なく投稿する。

 

・体裁を気にしない。
守るべきもの、素性が割れている場合、俺はこんなブログはそもそも書かないだろう。素っ裸で家の中でいるような気持ちで書いている。もし素性が割れていたら、ちゃんと服を着て外面を気にして書くだろう。でもそれだとストレス解消にならない。ただ、これも妄想になるけど、ブログを通じてオフ会とかに参加する機会があったとしたら、そこに参加するのにものすごい抵抗感があるということくらいか。

 

番外編・ブログは見返せる
だったら、完全にクローズでやれと言う人もいるけど、別にチラシの裏に書きなぐってもいいけど、それだとチラシをなくしてしまう。でもブログだと残る。消されない限り。
そうすると、あの頃はこう考えていたんだとか見直せる。そして変化を楽しむことができる。
ただ、今の所1年前と何も変わらず、成長してないからそういう楽しみは得られていない。

総括
1年続けて思うことは、
俺は何も成長していない。

ということだ。

 

この継続力と記事数を少数精鋭の良質なコンテンツに変換したほうが効率が良いし読み手と書き手がWinWinできる。ただ、そんなことは俺にとっては無理なことだし、上述したように1年続かないだろう。


ただ単に自分の思ったことを書きなぐっているだけでは成長できないことを知った。

こんなブログをシコシコ書いているより、外で他人とコミュニケーション取ったり余暇を楽しむほうがはるかに成長できるんじゃないかと思った。いや、他人が成長させてくれる。

(対人スキル、コミュ力は俺に著しく欠けている能力ということもある)

 

結論、行動しないと成長できない。