それにしても何なんだろう。
今日俺は、
1,背筋をピンとのばして胸を張って
2,視線をまっすぐやや上を見据えて
3,歩幅はやや大きめで
4,自然な腕の振りで
5,堂々と
歩いた。
外国人は日本人と違ってこう歩いている!みたいなイメージの歩き方。
でもなんかいけないことしちゃってる感がずっとまとわりついていた。
出る杭のようなことをしている気がして、謎の圧迫がその杭を叩こうとしていた。
なぜ堂々と歩いているだけなのに、こんな晒されているような心地の悪さを感じなくてはいけないのか。
まぁ確かに威風堂々が背後で流れてそうな歩き方ををしている人はあんまいないけど。
一人で歩く時はスマホちらちら見ながらあるかないといかんのか。
うつむき加減で歩かないといけないのか。
人が向こう側にいなければいいのだが、自分の庭じゃあるまいからいる。
壮年以上だと意識しないが、派手目な若い女が2人以上だと意識する。
もう逃げ出す。
脇道があれば毎度それる。
脇道がない時は意識してないふりをしてすれ違う。
今日は歩き方が歩き方だったためJKとかJDとかとすれ違う時なんか笑われてる気がした。
あいつら毎度むかつくわ。一人だと弱いくせに群れになると急に本性を表す。
日本人は日本人的な歩き方をしなければならないのか。
靴底のすり減りペースがハイな歩き方をしなければならないのか。
話は変わるけど、なぜ今日俺がそんな歩き方をしたか?
それは自分が幸せに感じたから。
なぜ幸せに感じたか。
それは、人間関係に縛られていない自分を自由に感じ、そのことに幸せを感じたから。
周りの人間は、子供の世話や、友人や恋人、仕事場の人間関係、ありとあらゆる人間関係に縛られて生きているのに、それと引き換え俺にはそんなものがない。
それに俺はずっとボッチだったため、ボッチがデフォルトであり、ボッチが落ち着く。今更周りの人間の猿真似をしたところで無理強いに等しいし、落ち着かないだろう。
そう考えると俺は自分の性に合ったボッチライフを謳歌している。
それが幸せ以外の何者だというのだと。
やりたいことやれてる。
まさにいつもしてやられている”上との比較”を逆手にとった逆転の発想。
それで、足取りは軽やかだった。
だが錦糸町で美味しそうなボディの女を連れたカップルを見て吐き気を催すのであった。(それでも歩き方は変わらず)俺は顔より体つきに弱いのかもしれない。