クソマミレンの愚痴

30超え職歴なし長期引きこもり明けのダメ人間がクソ記事を量産

マルチタスクの正体

 

 

【あんたという娯楽がないと人生は退屈だ】.

 

ファイナルファンタジーⅧのキャラクター・キロス・シーゲルが同胞であるラグナ・レウァールに言ったセリフ。

 

俺にとっては加藤純一である。

加藤純一という娯楽が俺の人生を豊かなものにしていると同時に邪魔をしている。

 

俺はスイッチの切替がとんでもなく苦手な人間だ。

普通にスイッチが切り替えられる人は、この時間は加藤純一、この時間は勉強と仕分けしてそれぞれのブロックをこなすことができる。

加藤純一を見る時間は加藤純一を楽しみ、勉強は勉強という具合に、勉強に加藤純一を持ち込まないし、加藤純一に勉強も持ち込まないだろう。

 

スイッチが切り替えられない俺はマルチタスク

スイッチが切り替えられる人はシングルタスクにできる。

 

そして人間の脳はシングルコアだからシングルタスクに特化したものとなっている。

そのためマルチタスクをすると効率が落ちる。

マルチタスクをしているようでも、細かく分解して考えるとシングルタスクを交互にこなしているだけであって、真の意味でのマルチタスクではないと思っている。

 

以上のように認識している。

だから、マルチタスクのほうが得意な稀有な人間は、この交互にやる力が優れているだと思う。

 

今の俺はマルチタスク病に罹っている。

何をするにも同じ時間のブロックに2つの相容れないものを入れて同時にやろうとしてしまう。そして同時では100%、100%というわけにはいかない。

50%、50%とか合計で100%になるような100%を振り分けるような形になる。俺の場合は加藤純一を見ていると80%くらい気を取られる。そしてその比率は絶えず変動している。

 

しかし、実のところ100%を振り分けていると言うか全体的に一つのことを100%のシングルタスクでやるときより、振り分ける時にロスが発生しているように感じる。

シングルタスクで一つのことをやるのに合計100%のちからでできるところをマルチタスクになると振り分け手数料みたいな感じで合計60%下手したらそれ以下にタスク処理能力が減殺されているような気がする。

あまりに高い手数料だ。

娯楽と勉強みたいな対局にあるようなものを同時にやればやるほど手数料比率が多くなる気がする。

 

正しいのは加藤純一を見る時は他に何もせず加藤純一だけを見て、勉強は勉強というシングルタスクスイッチ切り替え方式が最もいいということは図書館でひとつのことしかできない環境に自分の身を置いた時に実感している。

 

ただ思うのは、勉強をする時間は勉強のみのシングルタスクというのは図書館に引きこもりでもすればOKだが、加藤純一シングルタスクというのが中々に難しい。

 

まず、加藤純一は娯楽だ。

映画も娯楽。

アニメも娯楽。

 

総じて映像系の娯楽。

 

対して、漫画や読書などの書籍系の娯楽というものがある。

 

違いは、コンテンツを閲覧するスピードを自分が調整できるかどうかというのがひとつにあると思う。

 

映像系は自分でスピード調整することなく、流れていく。受動度高し。

対して、書籍系は自分のスピードで読み進めることができる。読み進めるためには多少なりとも能動的になる必要がある。

 

何が言いたいかと言うと、映像系の娯楽は受動度が高いために、能動的になりにくいということだ。

 

つまり、映像を見ながら何かするということになりがち。

コンテンツが映像や音楽とかだとマルチタスクを誘発しやすいということが言いたいのだ。

 

漫画を読みながら小説を読むのは交互にならざる終えないけど、漫画を読みながら映像を流すのは同時にできる。(目線が本なんで映像の音声を聞くということになるが)

 

一方で映像系をシングルタスクで処理するという観点からすると、その時の自分は受動モードになっているわけだ。

そうすると、能動が余っていることになる。

そこで俺はもったいないと感じてしまう。

能動の部分を埋めたいと思ってしまう。

自分で手を動かしたり、読んだりと他の何かをしたがってしまう。

限られた時間ブロックに受動と能動の2つを詰め込むことで有意義に時間を使っていると錯覚することができる。

 

また、娯楽は時間の無駄という考え方もその錯覚にお膳立てをする。

娯楽の時間=無駄な時間という娯楽軽視も見え隠れしている。

 

アクティビティーとかの能動的な娯楽だとそういうのはないだろう。

映像系でも映画館等の強制的シングルタスク空間に対価を払って・・・という環境設定がなされれば、また違うだろう。

 

結論から言えば、全ては環境のせいなんだと思う。

 

シングルタスクを強制する映画館、図書館のように、それしかできない環境に身を置けばそれしかしなくなる。

 

娯楽、勉強の切り替えスイッチが取り付けられずに生まれてきた人や、ぶっ壊れてしまった人が100%の力を勉強とかに発揮したいなら、そういう環境づくりをするしかないんだろう。

 

そして加藤純一に関してもそういう処理を施す。

つまり、散歩中に加藤純一の雑談を聴くという環境設定だ。

散歩中なら少なくともゲームはできない。

 

ただ、歩きながら雑談を聞いているわけだから結局マルチタスクじゃんと言われればぐうのねもでない。

 

だが、歩くことはさほど脳の力を使わないからマルチタスク比率もほぼほぼシングルタスク並になるかと思われる。

 

あとは、リハビリ等でスイッチを作り直すということもできるかも知れない。

 

しかし思うのは、マルチタスクは温泉のようだということだ。

時間を同時に使っているように錯覚することで、娯楽を楽しみつつ勉強もやっているという間違った有意義を提供する。

この間違った有意義は時間を余すこと無く使っているというマヤカシの充実感を俺に与え、まるで温泉に浸かっているのように気持ちいいのだ。

 

ただ、その温泉から出てみれば結局娯楽だけ楽しんで勉強したものは温泉の中に流れ出てしまっている。

 

以上はまだ単純な方で、俺はGAME(メインストーリーパート、レベル上げパート)、娯楽動画、勉強動画、PDF資料、音楽、紙の本等相当重度のマルチタスカーなので、正直毎日ライフストリームの中にいるような気分。一時期のクラウドみたいな魔晄中毒のような状態になっているのかもしれない。(情報中毒)

 

情報ダイエットと同時にマルチタスクもダイエットしてスキル習得系の勉強だけでもシングルタスクにしないとこの泥沼から抜け出せそうにない。

 

長々と書いていたらもともと何の話をしようとしたのか忘れた。

 

俺は加藤純一という最高の娯楽を手に入れたが、それは使いようによっては自分を幸せにもだめにもするような存在で、その取扱にも自制心を求められるということか。

 

今の俺が一般人より遥かに足りていないものの一つは強制力だろう。

強制力のない環境にいるから自制力を発揮しないと楽な楽な方へと奈落へ落ちていく。

 

マルチタスクの正体をいろいろ考えていたら、自制力にたどり着く。

 

まだ書けそうだけど、気づけば寝る時間がⅠ時間半くらい押しているのでこのへんにしておこう。