JASHさんのお誕生日会の動画
誕生会の後(後半から)
う~ん、まったく羨ましいと思わない。
ああ、こういうのが好きな人たちが集まってるんだなぁというくらい。
本当に強がりじゃなく。
俺がこんなことされたら逃げ出すだろう。
恩知らずだが、余計なことしやがってくらいに思うかもしれない。
拒否感があるのは多分他人から見られる自分に自信がないからだろう。
今の生活にそのようなものは必要ないけど。
あと自分が祝われるに値しない人間という自分が自分に貼り付けたレッテルというのが多分あるんじゃないかと。
それでも自己肯定感は比較的あると思う、誰かと比較しなければ。
自由気ままに散歩している時間は楽しいし。開き直ってそういう生活をしている今の自分を責めなくなった(やりべきことはあるのにやらない自分に対する責め)。
誰かが、大切なパートナーがいると、喜びは2倍、悲しみは半分に分かち合ってもらえるみたいなことを言っていた(ザ・ノンフィクションのマキさんだったっけな?)。
確かにそうかもしれないと思うけど、俺はそれを放棄することで、人間関係の潜在的な煩わしさ、それに伴うストレスを回避している。
喜びは2倍、悲しみは分かち合えるかもしれない。でもそこには争いの火種が常にくすぶっている。俺の両親を見てて今思う。
JASHの動画に出てくる誕生日を祝ってくれる人たち。
その人達は伴侶というわけじゃないので、争いの火種というのはほとんど加味しなくていい要素かもしれない。
それに人がいっぱいいるので喜びはもう10倍界王拳くらいだろう(理論値)。
そう考えると誕生日を祝ってくれるくらいの友達がいたほうが普通に考えて「楽しさ」に関してはお得感がある。
だから普通の人はそういう方向性で動くと思う。
そして普通の人はそれが良いと信じて疑わないので、それ未満の人を哀れな目で見たりする(想像)。
結婚できない男(2006年)で桑野を見る国仲たちの感じだ。
そこそこ親密な友達は多いほうが人生楽しいはず。
そこまで頭ではわかっていても、やっぱりそういう人間関係がまったく羨ましいとは思わない(いや、ここらへんは食わず嫌い要素あり)し、他所の国の人たちがやってることくらいの認識がある(まぁ引きこもりにとって日本人も外国人も大差ないけど)。
リア友が存在しないために実感に乏しいというのも大いにある。
でも一度そういうのを味わってめっちゃ嬉しいとまではいかなかったとして、まんざらでもないな、悪くないと仮に思ったとして、それらがなくなって、なくなった後の一人の誕生日がより悲しいものになるかもしれない。
舌を肥やすな飯がまずくなるぞ。
という言葉があるけど、
人間関係を肥やしたら孤独が寂しくなるぞ。
ということもあるかもしれない。
人の絵に書いたような誕生日会の様子を見てこんなことを感じるのは俺くらいなんじゃなかろうか。
そして今年も誰からも祝福されない誕生日を終えた。
というか20代からは家族が取り立ててケーキを用意するとかもなくなった気がする。
そんな俺でも子供の頃は人並みな祝われ方をした。プレゼントとかもあった。
そしてその頃の記憶はない。嬉しかった「らしい」という感じになる。
記憶に残るくらい嬉しかったら、それがなくなった今寂しいと思うのか。
誰かに祝ってほしいと思うのか。
生まれてきたくなかった人は誕生日についてどう思っているのか?
結局まとまりなく誰かに問いかける質問で終わる。
あ、でも誕生日じゃないけど中学受験のとき塾の祝賀会でパーティーみたいなことやったけど全然楽しくなかったわ。だから多分楽しめんわ。あーよかった。
今見たら、参加者のほぼ全員が誕生会の様子を動画にしてる。
WinWin。
でも博多からきた娘や宮城のコーカさんは交通費で赤字なんじゃないだろか。