・散歩
スナモまで
・人の価値
ってなんだろう。優秀とか?
でも俺は人は等しく無価値、もしくは価値ある者と思いたい。
世界に一つだけの花の歌詞のように思いたい。
人の価値とか優劣とか、そういうことにこだわっていると損しかしない気がする。
誰々と比べて俺は劣っている、優れている。そういうの疲れるし、できれば避けたいところだ。
しかし、それに囚われている自分がここにいる。
生物であるがゆえの本能なのか、誰しも人より優れたい抜きん出たいと思うものなんだろう、人間というもんは。それのために努力し成長することはとてもいいことだ。
でもそこそこでいい気がする。俺の場合。優劣を強く意識して切磋琢磨したほうが人はより成長するだろう。そういう人はすごいと思うし、真似できないため基本尊敬もする。ただ、「これが力だ」というように己の力を誇示、ひけらかしたりするような自己顕示欲の化身のような者にはヘドが出る。
例えば、フィギュアスケートの大会とかピアノのコンクール、Youtubeで弾いてみたとかはいい。それを求める人(聴衆とか)だけで構成された空間だし、ルールも守られている。でも昨日の大音量ピアノ弾きはそうじゃない。大半の人に求められてない(他に試奏している人もいる)し、ルール(マナーだが)も守らない。だからヘドが出る。だが彼が然るべき場所、条件で同じ行為を行っていたとしたらヘドは出なかったであろう。
それはそうと、格ゲーを始めて思うように行かずに俺って才能ねーなと思った。これは裏を返せば俺は無価値というよう意味合いにも取れる。自分を卑下しても楽しいことじゃないなと思った。でもこの強烈な屈辱感とか劣等感(何糞という気持ち)は強烈な起爆剤にもなりうる。
格ゲー。今の俺は社会のド底辺で無価値だ。今更社会に飛び込んでも一生負け組確定だし価値ある人物になる可能性はゼロに等しい。格ゲーで人生変えるつもりは毛頭ないが、持たざるものだからこそなにか一つでも持てるものを求めたがるのかもしれない。それが一般人にとって無価値なものでも。
でも自分に価値を感じたいなら、自分より劣っている人の中に入ればいいんじゃないかとも思った。そうすりゃ相対的に優秀になる=価値が出る。
例えば、俺の家電屋でのプレイを見る人がたまにいる。その人が何も知らないならなんかすげーと少しばかりの価値を俺のプレイに感じるかもしれんけど、やってる人からすれば全く価値を感じないだろう。暴走ピアノ弾きも所詮アマチュア、プロには劣るだろう。
価値って相対的な面もあるような気がする。
こういうことを考えるのは自己承認欲求に飢えているからだろうか。
散歩中にこういうようなことを考えた。
だから、ただその空間を楽しむという生き方に憧れを感じる。
これは俺が常々言っているところの「普通の人」の生き方だ。
心の打ち解けた者同士ならば喫茶店とかでインスタントな会話をその場で消費し、それなりに楽しい時間を味わう。
そこに切磋琢磨も個人の成長もない。
そのものを楽しんでいる。
そこに価値も優劣も関係ない穏やかなときが流れている。
価値とか優劣に縛られなければ、格ゲーとか楽器の演奏もまったり楽しくやれるんだろうか。
試遊台とか見ても実際に適当にレバガチャしてそれなりに勝ち負けを楽しんでるやつも少なくない(プレイ内容はリプレイを再生すれば一目瞭然)。
う~ん、ボッチだとどーせ他になにもないしということでガチ勢的な思考に陥ってなにかを極めようとする方向性になっていくのだろうか。
そういうただ時間を共有してその場を楽しむ的な友達もいないし、その異性版の彼女とデートというのも興味ないし、そもそもできない。だからそういうものがすっぽり抜けている俺の中の空白を埋めるもの(俺の場合今格ゲー)を守ろうとする。その心のふたのようなものをつなぎとめるために極めようとする。
ただそれはなにか退廃的な思考を感じる。ボッチを楽しむということはやっぱり難しいなぁ。
以上
1年前