クソマミレンの愚痴

30超え職歴なし長期引きこもり明けのダメ人間がクソ記事を量産

困ってた人を助けられませんでした

タイトルの通りです。

また困っていた人を見捨ててしまった。

そこまでしてやる義理はないと思いつつも罪悪感のようなもやもやを感じた。

 

場所は葛西中央通りという通り(ググった)。

そこを歩いていた。

 

そしたら私服の男子高校生3人組とすれ違った。

 

そからちょっと歩いたら財布が落ちていた。

 

・周りに人がいる

接触感染リスク

・面倒なことは勘弁

・土地勘がないので警察の場所がわからない

 

等の理由からスルーした。

 

しかしその後予想外のことが起きた。

いきなり誰かが話しかけてきた。

 

「財布拾いませんでしたか?」

と聞いてきた。

さっきすれ違った3人組のうちの一人がめちゃくちゃ焦ってる。

あごマスクで多少ふざけんなと思った。

 

とっさに言葉が出てこず一瞬フリーズしたらその一瞬で彼は走っていってしまった。

 

ここはチャンスだった。

彼を呼び止めて財布のことを教えていれば彼の人生は変わったはずだ。

でも俺はしなかった。他人事だから。

彼は財布が落ちてるポイントからどんどん離れた場所を探していったから実に気分が悪かった。見殺しもいいとこだ。

その困ってる様子を見てせせら笑うような悪趣味は持ち合わせていないだけに後悔と罪悪感と自分の意気地のなさや親切心のなさに呆れ多少の自己嫌悪に陥った。

 

人と日常的に会話をするような生活をしていたら、精神的ハードルはここまで高くなっていないだろう。

 

キアヌリーブスのような人間になりたい。

そう思っていたはずなのにできなかった。

 

キアヌリーブスの数あるいい人エピソードの一つに、自身の主演映画のパーティー会場に入れず雨の中待っていたというのがある。

そのエピソードの続きでダンスフロアでクレジットカードが落ちているのを見つけて「これ誰のですか?」とDJブースで呼びかけたというのがある。

 

俺はこれができなかった。あろうことかわかってて見殺しにした。

財布が落ちているのを発見したときにはわからなかったけど、その後彼が現れたことであの財布の持ち主を知るに至った。点と点が線で繋がっていたのに、その事実に気づいていたのに俺は何もしなかった。

 

そして言い訳する。知らぬ顔をしていたわけではない。

俺の中で点(財布が道に落ちてた事実)と点(財布拾いませんでしたと尋ねてきた男の出現)が線でつながる(落ちていた財布の持ち主はこの男)寸前に彼は行ってしまった。でも点と点が線で繋がった瞬間、俺が多少声を張り上げて彼を呼び止めていれば明後日の方向を探すことはなかった。

 

そこでも言い訳をして、俺は普段会話してないから声を出すまでの精神的ハードルが高いとか、関係ないとか面倒とかそういうのが邪魔をしてそれに負けて結果的にはやっぱり知らん顔をしていたということになる。

 

別に感謝されたいわけではない。

こういうことは前にもあってその時もやはり見捨てた。その結果、人間としてまともな対応ができなかった自分が汚い人間に見えてきたりして吐きそうになる。

このマイナスを除去するための人助けなのだ。

それを知ってるのに今回もまたやってしまった。

 

でもこれは仕方ないんだろうとも正直思ってしまう。

普段それほど深い関係じゃない人(一期一会のお客さんとか)に多少なりとも情を持って接している人なら、見ず知らずの困っている人間にも手を差し伸べる器量を持っているだろうと思った。

そして俺はそういう人に10年以上前に門前仲町と最寄り駅で救われた。

自転車で門前仲町の横断歩道を渡る時に5000円くらい入った財布を落として、周りの人たちが教えてくれてその中の一人がわざわざ拾って手渡ししてくれた。

最寄り駅では俺と全く面識のない女性が俺が落とした定期券を拾って大声で俺の名字を叫んで走って駆けつけてくれた。

こんないい人もいるのは知っている。

でもかっぱらってくクズがいるということも知っている。前者は被害を抑えられたという点で本来マイナスになるものをゼロに戻したという原状回復なので得はしていない。考え方次第ではマイナスを防げたので得というのもあるが。プラスにはなっていない。

しかし、行動経済学の本をちらっと見た時にプラスよりもマイナスのほうが2倍精神にくるというのを見た。

だからマイナスのほうがどうしても記憶に残る。

その結果クソな人間のことばかりが記憶に残っていて、いい人の記憶はどっかにいっちゃう。

なので人間は捨てたもんだと思ってしまう。

 

まぁ結局俺が人並みの善人(困ってる人を助けてやるのは善人だよね)になるには最低限度の人との交流(普通の友達とか同僚とか家族とかとのコミュニケーション)があるとハードルが低くて済み、振り絞る勇気量を減らしてフットワークを軽くすることができるんだろうなと思った。

 

振り絞る勇気量。これは俺が見知らぬ日本という地で迷っていた韓国人女性2人組に降りる駅をナビゲートした時を思います。この時はめちゃくちゃ勇気を振り絞った。普段の自分じゃ考えられないくらい。

(最初に各停じゃないと止まらない駅に行きたいといきなりグーグル翻訳の画面を見せられたがこのときもフリーズしていたら彼女たちはそのまま急行に乗ってしまった。俺も急行に乗った。しかし彼女らが降りるべき駅になっても降りようとしないので駅に止まる直前に話しかけて(というか言葉が通じなかったのでジェスチャーで)下ろして、そのまま彼女らをその駅まで送り届けた・・・ということをした)

自分でもなぜあんなことをしでかしたのかわからない。俺はどちらかと言うと照れくさくて人から感謝をされるなんて嫌だなんていうタイプのひねくれ人間だ。

そんな俺があんな大胆不敵な行動になったのはなんだかんだでスケベ心だったんじゃないかと思う。

むっつりスケベの逆襲だ。

別にこれをきっかけにナンパしようという下心ではない。ただ、女の子を助けたいというスケベ心がいい方向に作用したということだと分析する。

 

今思ったが、財布を落としたのが男のクソガキじゃなくて真面目そうな初な女の子だったら話は違っていたんじゃないかと。

スケベ心じゃないけど、以前韓国人女性を助けたときのような俺の中での謎の正義感がまた発動してまたナビゲートしたんじゃないかと思った。

けどコロナ状態なのと道歩く時はノーマスクなんでそれが邪魔をしてそれを言い訳にしていたっぽいな。

しかし俺が門仲と最寄り駅で助けれられたとき俺は男のクソガキだった。

 

老若男女別け隔てなく人を助けられるような人間になりたい。思うのは自由だ。