・散歩
昨日と同じ。
親が景色すごいだろ的な事を言う。確かにすごいとは思う。でも正直なところ感動はしない。けど合わせる。この合わせるってのに毒気のようなものを感じる。なんなんだろなーこの気持ち。嘘ついてる時に感じるあの後ろめたさとか申し訳無さとかに似てるかもしれん。
世の中人の話に合わせるとか乗り気じゃないけど相手の気持ちを立たせるためにしょーがなく乗ってるフリをする的なことをきっとみんなしてるんだと思う。
この毒気は俺が慣れてないからそう感じるだけなんだろうか。
人の話に合わせる事を長年やってるとそれに慣れて特に何も感じなくなるんやろか。
昨日このブログに愚痴吐いて幾分楽になった感じはする。
とはいえやはり多少なりとも皆無な社会性を発揮しなければならないというのはストレスが溜まる。直接イラっとする系のストレスじゃないんだけど、なんだろな、自由を縛られてる感かな。
あと家族によくされると芽生え始めるのが病気になった時や死別するときの不安だ。
まだ起こりもしてないネガティブなことを色々考え、家族が嫌な目にあったらなんか俺も嫌だなとか考える。
家族のこれから起きるであろう問題が俺の問題の一部のように感じられるアレ。
正直こんなもんないほうがいい。
事実もう何年も会ったことすらない肉親が死んでも涙一つ流さなかった。精神的ダメージはほぼなし。ああそうなんだ、残念でした。こんくらいだ。
逆に死ぬ寸前まで一緒にいた犬が死んだ時は自分の体の一部をえぐり取られたかのような精神的ダメージを負った。
もう二度とあんな思いはしたくない。
それなのにそういう大事な存在が存在してしまうことになる。親しくなると。
それは確実だ。
だから嫌いなほうがまだまし。
いっしょにいて楽しかった思い出なんてないほうがいい。
そう考えてしまうのは俺が心の弱い人間だからだろうか。
今回接した犬もおそらく十年くらいしたら(事故死とかしなかった場合)人間より先に逝くことになるだろう。その時親がそれに耐えられるか?とかいらん心配までしてしまう。
でもみんなそんなこと考えないんだろう。事実犬が12歳くらいだった時そんなことは思わなかった。寿命的に一緒にいられる時間は長くはないなと頭でわかっていても恐れとかはなかった。
これも慣れなのかもしれんが、俺はやっぱり独り身のほうがいいやと思う。
以上
1年前
知識を得たところで何の解決にもならないんだよな。