今日はいろいろありましたねぇ。
相手と喧嘩するっちゅーのは心が疲れます。
自分が傷つくことがわかりきってる返信を待たないといけないし。
こちらも応戦する度に心がすり減っていく。
今日はだいぶ削れてしまい、久々に鬱な感じになった。
他人といさかうのは重い。
そして想定外の結末に罪悪感とやり切れなさが同時にこみ上げてきて酷く気持ち悪くなった。
その気持ちを紛らわそうと久々に写経(他の人が書いたプログラムコードを自分で手入力する作業)した。
俺はどうも手を動かして別のことを考えるようにしてモヤモヤを遠ざけようとするタイプらしい。
慣れていなすタイプではなく逃避して目を背けるタイプ。
愚直に写経をしているとなんか知らんが自分が許される気がした。
どこか敬虔な気持ちになれた。徳の高い気持ちになれた。
距離は短いけれど一歩一歩前に向かって進んでいる気がした。
今の俺に俺に足りないのはこれだということを夕方に散歩しながらひろゆきの話を聞いていて感じた。
その話の趣旨は毎日一歩一歩前進していると実感できないことがストレスということだ。
ああ、俺の日々のモヤモヤの正体はこれなんかなぁと思い返した。
そういえば、去年の10月にほとんど外に出ず引きこもっていた時に進むべき道があってるのかということに疑いを持たないでひたすらプログラムの英本をコツコツ音読している時間は確かにストレスではなかった。わかんない単語にぶつかる度に調べ・・・忘れる度に調べ・・・と繰り返していくうちに語彙力は嫌でも上がり、英文に対する抵抗もそれに反比例して減っていき、実感のみならず実力もついたと思われる。
写経に戻るが、実際にゆっくり実際に入力していると少しずつ階段を上がっている「気がする」。
適当に本読んでわかった気になっている時とは違う感覚。
これを習慣にする鍵は「謙虚さ」にあるんではないかと直感する。
家に一人閉じこもっているとサル山の大将なわけだ。
そうすると監視の目もないから自ずと自己中で何事に対しても横柄になりがちだし、やりたいことだけやってやりたくないことは棚上げ。それをずっとこれまでの人生続けてきたので、これが俺の本質なんだろう。
それをなんでもいいから毎日少しずつ進むことで確実に上やら前やらに進んでいると実感できることをやる時間を1日のうちに短時間でもいいから設ける。
あとは、発想の転換。
去年、一生ぼっちで生きていくと決めてからは相当生きるのが楽になった。普通に考えると常軌を逸した決意なんだが、意外と楽観的になる不思議。
あと常に頭の中を蝕む将来の金の心配なんだが、これを逆転できればいいと思っている。とりあえず、金の「心配」の方。不安を感じなくなる方法。それもまぁさっきの一歩一歩進む実感に通じるものがあると思うけれど、金!金!じゃなくて先ず社会貢献的精神!副次的に金。というような感じ。
これは余裕がある人しかできなそうな発想だが、俺は一生ぼっちと決めたので金は自分一人分でいいから人並みに稼げるだけで余裕を手にすることができるのだ。(少なくとも妻子持ちと単純比較して)
そう考えると、「一生ぼっちで生きていく決意」と「金の心配の解消」も裏では通じているのかもしれない。それらが更に「一歩一歩前進している実感」にも繋がっている。なんだ、全部繋がってんじゃないの?
以上。
1年前
働く場所が自由ならどこだって仕事をしてお金を稼ぐことができる。
ノマドっていうの?仕事するにしても自由度が高いっていいね。(無職が何いってんだって話だが)
さて、小一時間ほどして充電が完了したらまたポケゴーしに散歩しようかな。
あと電気ストーブ買いました。
作業場のデスクの下に置いてます。
足元だけは温かい。