英語を喋るのに慣れてきたようで、特打のタイピングをするようにダダダダダと喋れるようになってきた。
リードは結構いける口になってきた。
だが、実際に外国人に道を尋ねられるシチュエーションに遭遇したら何もできない気がする。
しかし、暗黒放送のウォーキング企画を今見ているけど、彼の知り合い(リスナー)は彼(緑)をディスウェイフォロミーでともに歩き道案内をするけれど、彼の知り合いじゃない一般人は「真っすぐ行って、突き当りを左に・・・」みたいに口頭で道の案内をしている。
このことから、面識のない人を道案内する時は口頭での説明がスタンダードであって、実際に一緒に付き添って道案内をするという行為は”常識から外れた”行為なんじゃないかという印象を受けた。
向こうに気を遣わせるってのもあるし、ついてこられると会話せにゃならんから気まずい、話したら話したで詮索と受け取られる、というのが日本人としてはまず思い浮かぶ。
でも対外人だったら、何処から来たの?みたいにフランクにいける気がする。というか、口頭でパーフェクトに伝えられることなんてほぼ無理だから、自分でグーグルマップで調べて連れて行ったほうがはやい。
と思ったけれど、相手からしたら何処に連れて行かれるかわかったものじゃない。
外国のストリートはサバイバルみたいだから逆に警戒されるかもしれない。 (まぁ日本の治安と国民性が知られていると考えれば無用な心配かもしれんが。)
そういう半ば思い込み的なこと(主にネガティブ)を考え始めると結局「知りません」で関わり合いを放棄するのが最も賢い選択に思われる。
ただ、煮え切らない感情は残る。
自分の不甲斐なさ、もっとできたんじゃないかとか。そういうのは余計な感情と言えるかも知れないけれど、罪悪感とか悔いとかふがいなさ、情けなさというような呵責のようなものを感じる。
道を聞かれる度に毎回そんな感じの体たらく。(いつも土地勘のないとこで尋ねられるからググるか拒否るできない)
結局どうすればいいのか。
その答えは「自分がその時思ったことをする」に尽きると思う。
相手がどう考えるかとかは一旦棚上げ。じゃないと何も始まらない。
自分がまず思ったことを意思表示して、相手の反応を伺いつつ判断する。
自分の感情に素直に従っているし、相手の気持ちも尊重している。
これだけの話なのに、なぜ思いお悩むのか。
このことも今、思考を順々に紡いでいって言語化していたら出てきたものだ。
まぁ実践も実戦もやってないから、言わばこれは、「オフラインならどうとでも言える」妄想に過ぎないけれど、言語化したからにはそういう点は意識していこうかね。サドンアタックだと為す術ない可能性濃厚だが。