他人を尊重する。
どんなクズでも尊重する。
そんな聖人になる。
それを素でやる。
それができなくても許す心を忘れない。
そうすれば人生楽になるかもしれない。
なぜなら、俺は真逆で苦しんでるから。
しかも人間関係ないのに。
どう苦しんでるかというと、外を歩けば歩きタバコのバカにイライラするし、電車に乗れば他人の迷惑顧みないアホの狼藉っぷりに閉口する。とりあえずはこのへん。
他人はクズ。
クズは蔑視する。
俺は基本、他人を見下している。
無職のクズが何いってんだ・・・というのは置いておいて、
他人との繋がりがない場合は、それでも問題ないが、この思想を持ったまま他人とつながっていると俺は社会で問題を起こす危険性が高い。
人間関係がゼロのまま長年生きていると、そういう思考になるのかもしれない。
人間関係でいい思い出が皆無で、嫌な目にあったことは山程あるという状況のまま人間関係ゼロ期間(長期)に突入するとそういうふうになっちゃうのかもしれない。
自分は他人に矛を向けている気がする。無意識のうちに。
相手もまた矛を携えているため、ちょっとしたきっかけで諍いが起きる。
町中で始まる喧嘩とかはそういうふうに始まるんだろうか。
俺の場合は、そういう喧嘩を売るということはしたことはない。
ただ、相手にもうすうす「こいつは俺のこと見下してんな」というのが伝わってそうだ。
今までの人生数回絡まれた事があった(別に視線を合わせたとかそういうんじゃないのに)がそういうのが顔からにじみ出ていて、多感な若者が面白くなくてガンつけてきたのかもしれない。
それにしても、会社でクズ上司どもにこき使われながらも、自分を殺して奴隷やってる人たち・・・ストレスでよく死なないなと思う。それが大人になるということだというのならそれはクソくらえな気もする。そんなこともおおッぴらに口には出せない。どこで足元を救われるかわかったもんじゃない。
んだけども、この世はどこかクズが出世するような風潮があるため、クズをクズと心の中で罵ることになんの意味もないし、精神的に損をするだけのような気がする。
まぁ、クズいうても自分と価値観とか相性が激烈に異なるだけかもしれないし、そういうときは自分を変えるしかねーんじゃないかと思う。
ある日突然クズが聖人になるなんてことは天文学的確率だし、そんなん期待するなら自分の中身を取り替えてほうがいい。
あとは、プラスを期待しないことだ。
俺は基本他人とはかかわらなかったが、家族とはかかわらざるおえなかった。
その家族というより身近で小さな関係でも、俺がよかれと思ってした行為が、非難轟々ということも少なくなかった。
あと地味に心に刺さるのは、良かれと思ってやったことが、上っ面だけで褒められているとわかった時。ああ、やっちゃいけなかったんだぁ~となんとも言えない気分になる。
行動経済学的には損は得の2倍の精神的ダメージというらしいが、期待したものが手に入らなかった損害はやっぱりダメージはでかい気がする。
こんなことが度々あると、むしろマイナス思考のほうがいいんじゃないかと思えてくる。
さっきと逆にするのだ。
マイナスを予期して、プラスの結果が出てきた場合に、望外の喜びを得られるかどうかわからないが、マイナスが返ってきた時にダメージを緩和できるメリットがある。
だからといって奥手になってしまっては、元も子もない。まぁ、要するにあたって砕けろということだ。
別に上司にいびられた経験もないニート(もうすぐ無職)がいろいろ妄想してみたが、この考え方はナンパするときの心得としても使えそうだ。(おそすぎか)