・散歩
東大島→船堀
船堀のアタックに行くもゴーヤが売り切れ。店員をチラ見したらマックドナルドのポテトみたいな頭の太った青年がレジやってた。こないだの店員はヤンキーあがりの女性。このスーパー、レジの人怖い。
ゴーヤ買いに来たが残念ながらなかったので、元来た道を戻りビッグ・エーでなにか買って帰宅。
今日は胸のでかい女が4人くらいいた。全体もでかいおばさん、いい女オーラの青い服の人、ロケットの先端のような人とか。まぁこれらは俺的にはテレビ画面なんでテレビでおっぱいのでかい女がいたときの反応にとどまる。
また夜に買い物に行く。この時間になるとカップルが二人で並んで歩いている。それを見ると以前はやっかみの目で見ていたが今ではのんきにタバコ吸ってる爺の方にイラつく。やっかみの目で見るのは意味ないし心を砕くだけなので冷静な自分に戻るが。どうせやつらは背景だ。街角の様子を移したテレビと一緒だ。俺はある種仮想現実に生きてるんじゃないかという気がしてきた。
現実世界を生きている気が全くしない。俺はテレビに映ってるのと同じ世界を歩いているかのようだ。排気ガスとかタバコ臭とか臭いニオイ付きのテレビの中。
長年誰とも濃厚接触しないとこういうことになるらしい。接触機会はあれどレジや受付や医者などでそれらは仕事をしていて俺は客という立ち位置だ。つまり替えがきく。ということは誰でもいい。人間じゃなくても。
そうなると俺の接触機会はちょっとばかり性能がいい機械と表面上の会話をしているに過ぎないというものに等しい。
現実世界に人は存在しているが、俺の世界には存在していない。実在の人間は背景であり、俺の世界では人間ではない。
これが俺の現在至ってる「街の人たち背景理論」だ。
これは今の俺には都合がいい反面、反動の恐怖もあるし、自分がこのままでいいのかという疑問もある。
反動というのは何らかの理由で強制的に人間グループに入って共同作業をするというようなことになった場合(バイトとか)、困惑しストレスでどうにかなってしまいそうという恐怖だ。最終的に別人格を作るなり、クソな性格をひけらかしてやめるまでやるみたいなことになりそうだが、そこに至るまでには慣れがいる。そして慣れるまで大変そうだ。
このままでいいのか?というのは今の状態が仮想空間に生きていると感じるまでになっていることだ。現実を生きていないのはやばいんじゃないかという疑問。
それに漠然と自分のためだけに生きることについてどこか限界のようなものを感じつつあるからだ。映画やゲームをして面白いとか気持ちいいとか感じてはいるが、その面白いやら楽しいやらの上限はなんとなくだが低い気がする。一人で得られる楽しさには限界がありそうだと最近思いつつある。
もし強制的に働かされるようになったら直接感謝されるような仕事のほうがいいと思いつつある。
こうすると介護とかそういう道が見えてくる。
介護とかに進む人はみんなこんな考えなんだろうかね。あと人手不足だから就職先に困らないとかもあるが。
まぁ根性なしなんでそうなっても極力人間関係の発生しない職場を探すんだろうな俺は。
以上
1年前