最近エア出勤に興味があって引退した父親の背広に袖を通してみた。
(平日に浮かないから)
しかし、重いずっしり重い。
これが社会人としての責任の重さなのかと、
それぐらい重かった。
こんなのを着て仕事をして疲れないんだろうか。
上司に怒られ、取引先に嫌嫌行かされ、仕事で失敗して白い目で見られて、孤立して、それに耐えきれなくなって失意のまま退職。そして失業者となり、重い背広から解放され軽い服に戻る。(俺が万が一普通に背広着て働いた場合のイメージ)
あ、でもよく考えたら室内では上着は脱いでいるか。
俺は上着は脱がない。室内でも。でも皆脱いでいる。脱ぐのが多数派だということが分かる。そして細かい所で自分が少数派だということも自覚しているし、変なやつ認定されているだろう。決して会話をしない他人に。
しかし、なぜ右へ倣えで自分を曲げることができないのかわからない。
なぜ脱がないのか。
それくらい軽い服を着ているから、重さという観点で脱ぐ必要がない。
脱ぐ必要は重さでなく温度。上着を着た状態で温度が自分にとっての適温であれば脱ぐ必要がない。
それに一旦脱ぐとまた着なきゃいけない。脱いでまた着る。2アクション。この2アクションが面倒なのだ。
周りの多数派に合わせるためにこの2アクションを自分の行動にプラスすることに合理性があるとは思えない。
あとよく部屋の中で帽子を被っているのは非常識だという社会通念がある。
俺的にはどうでもいいが、俺は帽子は脱ぐ。
それは単に邪魔だから。あと蒸れる。常識から逸脱することを恐れて脱ぐわけではない。
別に邪魔に感じなければ帽子を脱いでまた被るの2アクションを省けるのでそのままでいいと思う。
しかしこの常識って何なんだろうな。
別に人に迷惑をかけなければ非常識でも構わないんだと思うんだがなぁ。
まぁ色々うだうだとのたまってはみたものの、とどのつまりこういう人と違う行動を取るようになったのは、一人だからだろう。そして独りよがりになる。
これがもし自分を取り巻く環境に他人がいたら話は違ってくるだろう。
一人だと他人からの評価は返されない。しかし、自分を他人の中に置いているとそれが返ってくる。
そして、ポリシーの範疇の外にあれば我が身を振り返り、矯正したりできる。
しかし社会人として戦場を駆け抜けているとポリシーもへったくれもないんだろうな。
そのポリシーさえも社会に染められていく。そんな気がする。
他人は自分の矯正係なので、その矯正係がないと俺のようになってしまうんのかなぁと思う。
自分だけの世界だったら独自の行動やファッションで問題はないだろうけれど、他人を混ぜると多数派に転じたほうが色々と精神的抵抗も減少し楽になる。
だから、皆同じように見えるのかもしれない。皆染まっていったから。
世間では他人との関わりを強制されている人が大多数派だから。
よって少数派の俺は浮くことになるのである。