・散歩
ニトリに行った。そうしたらカップルや夫婦で買い物に来ている人のほうが多数派だった。
まぁそれはいいとしてたまたま視界に入ったそういういったやつらの女の中に女子アナみたいな女がいた。うつむいて顔は一瞬視界に入っただけだが心臓は別にどうともなかった。昔だったら心臓がドキっとしていたとかこのブログに書いていただろうが、そうはならなかった。
俺はもう悟りを開きつつある。悟りというのは自分自身を知り自分に従うと勝手に定義する。俺は本心を誰かに合わせるというのが死ぬほど嫌。絶対したくない。まだ倉庫とかで働くほうがマシだ。本当の自分を隠して本心を偽って友達や恋人に無理やり変形させて演じるなんて考えただけでも吐き気がする。それは怖いからだ。本心を晒すのが結局怖いんだろう。だから誰とも関わりたくない。だから本心を隠して偽る。そして吐き気がする。の悪循環。
多分人と無理やり交流させられるというような状況になったこうなるに違いないと予想する。
更に予想すると、終始顔につまらないと書いて人が遠ざかっていき、そして誰もいなくなるだろう。孤立。本心に従うとこうなる。
それに髪をセットしたり毎日ヒゲを剃ったりまともな格好をして髪型が変になってないか男子便所の鏡で確認するような男にはなりたくない。
みんな人付き合いの経験とか慣れでうまく本音と建前の塩梅を調整したりしてるんだと思う。ストレスを感じながらも。俺は引きこもりなんでそういう社会かどうなのかはわからないけど。
そういうことをしてこなかった俺がそんなことやれっていっても鍵穴に合わない鍵をねじ込むようなもんだしそんな事したら鍵がポキっと折れてしまう。
人付き合いがうまい人は鍵をいっぱい持ってるのかもしれない。不器用な人は鍵を変形させようと頑張るし、俺は鍵穴に鍵を突っ込むことを放棄している。
だから友達も恋人も作ることを放棄したし、きっと付き合ったところで面倒だし連絡、返答義務が付き合っている限り生じる。
権利じゃなく義務と感じる時点で人付き合いに向いていないんだろう。時間を共有することで感じる幸福よりも苦痛のほうが勝る。
俺も多分本能的な欲求から価値観を共有する存在を求めているんだと思うんだけど、面倒や自分の気楽や自由を侵害される恐怖がそれを抑えつけているように感じる。
その欲求が強くて本能に忠実な人が世の中にはいっぱいいる。以前散歩していた土日がそうだ。そういうのがいっぱいいたし多数派でありそういうのが幸せだと疑わない人がそういう人たちなんだろう。
そういう人たちは俺から程遠い人たちで深くは考えてないが程遠いとは価値観が程遠いということだと思う。
行き着く先はそういう価値観とは真逆の少数派の価値観を持つ人達との価値観の共有だけど、結局鍵穴変形作業は少なからず必要だし連絡、返答が面倒だという事実は変わらない。
それにどこかつまらなそう。価値観の似た人間同士が価値観を共有したところで最初こそ「やった」と思うけどすぐに「つまらない」になってしまう。俺は飽き性で同じことを長く続けられない。それは人間関係でもそうっぽい。
ニトリに行ったことでそのことを再確認した。しかし以前よりマシだと思ったことは悟ったことで赤の他人に対していたずらに妬み嫉みや歪んだ攻撃性を抱くことがなくなり心が楽になったことだ。どうして皆にはできることが俺にはできないんだとかそういうようなことを思わなくなった。皆にはできることが俺はできないということを悟ったからだ。
この孤独な籠り生活がいつまで続くかわからないが貯金が尽きたら親のところにすら行きたくない。まぁでも病気や精神病を患ってそのうち野垂れ死ぬっぽいけど。
以上
1年前