最近人の美醜に頓着がなくなった感がある。
自分の中で何かが終わった。そして諦めが始まった。
・どうでもいい赤の他人のイケメンや美女
そういうものに敏感な人は道で向こうからイケメンや美女がこっちに向かって歩いてくるのを見ると意識して挙動不審になったり顔を背けたりするんだろうけど、昨日は美人と思しき人の顔も普通に見た。
ヨドバシの受付嬢でめっちゃ可愛い人がいたんだが、最初は臆したものの、話しかけた後は比較的まともにやり取りすることができた。
平常心で美人の目を見て話せることに自分でも驚いた。
それなりの美人は街を歩くと意外と見る。
ただそういう人を見ても昨日は心臓がドキリとすることもなかった。
ただ、美女入りカップルだとドキリとしそうになる。それでも心臓が大きく脈打つということはなかった。
明らかに以前と比較していらぬ想像をして無駄な思考に囚われて気落ちするということもなくなった。
・自分の趣味のことを考えていた
昨日の帰り道はずっと9月22日の件についての記事をどういう構成にしようかなとずっと考えていた。このブログは俺の趣味のひとつである。自分の趣味のことを考えていたわけだ。
上野公園では周りを見渡せばカップルやファミリーなどのリア充がそこらへんにいたのに、どれを写真に撮ろうかなということに気を取られていた。クソ散歩の記事用の写真を撮るためだ。ブログ(趣味)のために写真を撮っていた。
アキバでも写真を撮ったり、10年前の自分のようにジャンク屋行脚をしてアキバを楽しんでいた。
自分の世界を楽しんでいた。
自分の世界を楽しんでいると、他人と自分を比較して不幸だなぁと感じることはなく、心地の良く、作業感もない。
・自分より上の赤の他人について考えることはやっぱり害悪でしかない
やっぱり他の人を意識してブログネタにしようというのはあまり好ましい行為ではない。
なぜならエロ動画を見ていると自慰行為をする気がなくても自慰行為をしてしまうように、赤の他人に意識を向けるとどうしても赤の他人について意識がいってしまい、比較対象がリア充の場合、比べることで自分を不幸だと思ってしまう。
街で俺が一生手が届かないような女を連れている男とか、もう戻れない大学生でラブラブな奴らが上の人間の主な例。芸能人とか前澤社長とかは雲上人過ぎて比較の対象にすらならない。
・比べるのはやっぱり自分と同等かそれ以下の人間に限る
比べるなら自分以下。比較対象が自分以下と思われる人たちと比べても特に不幸だとは思わない。むしろ妙な仲間意識すら感じる。
これは昨日、平日のアキバで再確認したことだ。
・自分が熱くなれる趣味がある人のメリット
自分の重要なことに気を取られれている時は他人について割く領域が少なくなるらしい。
自分が熱中できるもの、譲れないものがある人はずっとそのことについて考えているから街で出会う赤の他人について、あの娘かわいいなとかあいつイケメンだなと一瞬思うだけですぐに自分(たち)の領域に思考を切り替える。
それは自分の趣味だったり、仕事だったり、彼女だったり、家族だったりするんだろう。
自分の中身が空虚だったり真空だったりすると、そこに自然と目につくものが入り込んでくる。
その空虚や真空を熱中できること、自分が面白いと思うことで予め満たされていれば、どうでもいい雑念が入り込む余地はない。あっても少ない。入ってきてもすぐに出ていく。
他人についてあれこれ考えない。
自分が面白いと思うこと、好きなことがある人のメリットの一つだと思う。