前に自分は客観的にはメンヘラだが主観的にはメンヘラじゃないみたいなことを書いたと思う。
人はなぜ鬱になるんだろう。
一時的に落ち込むことはあると思う。仕事の失敗とか振られたとかで。
でも慢性的にその状態が続くのが鬱だと思う。
あくまで自分が何も調べず思ったこと。
多分、人から認められたり褒められて自己承認欲求を満たすというのが定期的に訪れれば鬱にはならないんじゃないかと思う。
自分ひとりだと難しいことだ。
あとは、妄想をしないことだ。
相手はきっとこう思っている違いないという思い込み、決めつけ。
そもそも人との関係のあり方について考えないことも大切だと思う。
相手から嫌われたくない余り、本来の自分を抑制して八方美人に振る舞ってストレスを溜めたり・・・。
二人なら会話できるが、3人だと厳しいとか。
残りの二人の会話を優先させるからこういうことが起きるんじゃないかと思う。
相手がどうこうより、自分の欲求(話したい時には話す)を優先させたほうが案外うまくいく気がする。
あと聞き上手でもいいじゃないか。喋るタイミングを逸しても落ち込まない。
全部藍上さんを見ていて思ったことだ。
こうやって並べるのは簡単だ。難しいのは実践だ。
習うより慣れろ。実際に練習をしてみるのもいいかもしれない。ひろゆきも子供の頃の独り言の練習であんなに饒舌になった。
結局はコミュニケーションの場数を増やすことがまず第一なんだと思う。
頭の中で思ってもそのフィードバックが得られない。
実際に手なり口を動かしているうちに独特の距離感や感覚がつかめてくる。
別にコミュニケーションに限らないけど、何か挑戦する習い事なんかがあったとしてこのコツみたいなものを掴むと一気に面白くなる。
コツはその世界の入り口のような気がする。その入口に入ることができれば楽しいテーマパークが待っている。
のかな?
これまで高いコミュ力の持ち主だと思った人は何人かいる。藍上さんも言ってたけど相手のコミュ力が高いとこちらのコミュ力もつられて上がる。いや、上がらないけど相手にひっぱられるようにどんどん喋るし、喋っていても楽しい。
コミュニケーション界のときどや梅原大吾みたいな達人ばかりだった。
逆に一方通行な会話をする人や、コミュ力が低い人だと、沈黙だったりつかえたしたり、噛み合わなかったりして、非常にストレスがたまり、口数も減る。
そういうのばかりと喋っているともう喋るのが嫌になるんじゃないか。
俺は、コンプレックスで喋れなくなったり鬱になったりしたからそこまで行くことは中学くらいになってからはなかったけど。
子供の頃は平気でしゃべれていた。
幼少時代に人から悪口を言われたと思ってたけど、どうもそうじゃない。
言われることもあったけど、言わない人もいて、言わない人のほうが多かったのか、普通にコミュニケーションできていた。
原因はやっぱり思春期の第二次性徴期。藍上さんも言っていたけど自分の顔が気持悪いと思うようになった。
そして鬱に。
醜形恐怖で俺は鬱になった。
そしてしゃべれなくなった。
これもみんな俺のことをこう思っているに違いないという思い込みだ。
たしかにそう思っているかもしれない。口に出さないだけで。
そう考えるとすべての人を拒絶するようになる。
未だに自分のコンプレックスをつついてくるような人との関わり方がわからない。
まぁ、学生時代で人間関係止まっているからしゃーないけど。
そんな悪口を言ってくる人(というかいじってくる人。)とは関わりたくないけど、関わらざる終えないだろう。
そういう人が中学高校のときにもいて、その人が俺のコンプレックスについてぼそっと言ってそれを聞いて周りが爆笑するという辱めを受けたことがトラウマになっている。
気持ちは絶望的な気分になった。
現実どうしようもないことなのに。努力ではカバーできないことなのに。
コンプレックス=恥ずかしい
という図式はもう既に完成していたが、そういうことがある度にその思いは強固なものとなっていった。
そうやって鬱になっていったんだろう。
そういうこと言う人がいなくなった今、主観的には鬱じゃない。
ぼっちライフを満喫している。
今もう30過ぎた大人だ。
コンプレックスをつつかれたのは10代までだったかな。
もう見た目についてどうこう言ってくる人はそんなにいないかもしれないから杞憂かもしれない。
でも、心配しているということはやっぱりトラウマになっているんだろう。
今になってもまだ時々ぶり返してくる。
そして鬱になる。
まだ答えは出ていないけど、このトラウマと決別できる日はくるんだろうか。
時間の経過でも治らないケースではどうしたらいいんだろう。
時間の経過で治らないのは現在だからか。過去じゃないから。
とにかくそこに触らないことかな。
できることは。