クソマミレンの愚痴

30超え職歴なし長期引きこもり明けのダメ人間がクソ記事を量産

なぜ人は人に親切にするのか?

girlschannel.net

ガールズちゃんねるのスレ。普通に見ていてほっこりした。

 でもなんで人は人に親切にするんだろう。
でも人に親切にすることは自分にもメリットがある。
俺も実際にちっこいけど人に感謝されるような助け舟を出したこともあるけど、とても気分がよくなる。(例えば↓)

kusomamiren.hatenablog.com俺が韓国人女性二人組にしたのは一期一会の親切だ。

でも今思えばアレは非日常的な体験をしたことに打ち震えただけかもしれない。

 

一期一会の親切

いいことすると普通に気が晴れるのだ。
それにしても具体例が思い出せない。感情だけが残っている。
自分で過去にやった親切は忘れがちなのかもしれない。

でも今にも死にそうな老人に席を譲って介護者共々感謝されるとこっ恥ずかしくなる。
親切な人と思われるのはむず痒い。俺が人を選んで親切にする人間だからというのもあるかもしれない。誰に対しても分け隔てなく親切な人間だというレッテルが貼られたような気がして、でも自分はそんなご期待には沿えない人間だからそこで矛盾エネルギーに焼かれるのかもしれない。これが中途半端なひねくれ者特有の反応なのかもしれない。

一期一会の他人のための親切というのは貸し借りという概念はない。だから後腐れもなく晴れやかなのかもしれない。
もしも知り合いだったら、あいつに借りを作った、主導権を握られただの純粋に親切を捉えにくくなりそうだ。(家族以外の知り合いがいないからわからないけど)

 

偽善

でも基本的には偽善者って言葉は害悪な言葉だなぁ~と思ってしまう。
芸能人が大口寄付しただけでもネガティブに捉える人もいる。別にイメージづくり、売名が裏に見え隠れしてたとしても実際に懐から金出してるんだから褒められたもんだと思うが。
思い出すのは、マー君マー君の親父間の東日本大震災義援金についての対立。マー君は寄付した。金額忘れたけどべらぼうな額。その寄付した事実をマー君は震災を風化させないために公表すべきと主張し、親父は反対にそういうことは黙ってするもんだと反駁していたような覚えがある。個人の価値観で正解はないと思うので、金を出す当人が決めればいいんじゃないかと思う。

 

ひねくれ者のいちゃもん基質

俺は特に偽善について深く考えさせられる場面に出くわしたことは無いが、偽善に思ってしまう人の感情は俺がベビーカーに対して抱く感情に似ている気がする。
聖なる者への反旗。
(パッと頭に浮かんだ表現だがなんかクサすぎて自分でも笑った)

ひねくれてる者は何かといちゃもんを付けたがる。
きれいなもの、無垢なものに、恵まれているもの、苦労を味わったことなさそうなもの、容姿が優れているもの等に対してそれを素直に賞賛することができない。それらは自分と比較すると自分の価値を相対的に落とす存在なので、ムカつくのかもしれない。

似たような理由で偽善というか混じりっけなしの善に対して俺はそれを素直に受け取れない、捉えられない自分がいる。

 

親切の裏を考えてしまう

善行を受けても何か裏があるんじゃないか?なぜこの人は俺に親切にしたんだろう。そこになんとメリットがあるんだろうという疑念が頭をよぎる。
他人の親切を素直に評価することができない。
ただ、これも一期一会の親切の場合だと、(ああ、この人は人に親切にして気持ち良くなりたかったんだろうな・・・)と疑念なしに今では思うことができる。

 

リア充に対する親切の提供

また、いいこぶってんじゃーねー的な恩を仇で返すような捉え方をすることももひねくれ者にとってはお手の物だ。これは人生潤ってる人(広義のリア充)に自分の利益を犠牲にして親切にする俺の感覚からすると全くわからない人たちを見ていて思う。(図書館でカップルのために席を移動する彼女なしの男や、皮膚科で子連れママに席を譲る青年とか)
俺が持っていない幸せを手にしているやつに対してはとりわけ親切にしようと思わない。なぜもともと幸せなやつを更に幸せにしなきゃならんのか。
そういうやつに親切にしても気分はよくならないっぽい。自分の場合。
ああ、損したな・・・とすら思うだろう。

これを治すには自分の人生も潤ってないと無理っぽい。心の余裕がないと。
苦労あれど人生潤っていれば、リア充に対してもそつなく親切を提供できるかもしれない。

 

受けた親切は忘れがち

というか(上記のガールズちゃんねるの冒頭のレスにもあったけど)過去に受けた善行を忘れがちなのはなぜだろう。過去に受けた屈辱は忘れたくても忘れられないのに。

あとは、(あまり賛同はされないとは思うが)善行を受けた他人への嫉妬ともとれる得体のしれないネガティブという成分が含まれているかもしれない。
俺にはしてくれなかった・・・みたいな。

例えば、落とした財布を拾ってくれた親切な人がいた!と喜ぶ人がいる一方で、落とした財布が手元に返ってこなかった人もいる。
あとは、なぜあいつにはみんな親切なのに、俺には冷たいんだろうとか。被害妄想的な迷路に迷いこんだり。
そして、そういう恩恵を受けるのはイケメンとかかわいい娘とか美人とかの恵まれた存在に集中する。

ひねくれ者からしてみれば面白くないわな。

ただ、これも忘れてるだけな気がする。
俺にも親切にしてくれた人はいた。でも記憶から消えている。
誰しも他人から親切にされたことくらい一つや2つあるだろうと思う。
美人と比較して機会が圧倒的に少ないだけで。

 

親切心あります

でも俺の中にも人助けしたいと思うような親切心はある。
その気持ちを殺したら殺したで後悔めいた感情を抱えることになり損をする。

やりたいことをやる。
けど、現実にはやりたくてもハードルが高すぎてできないことが山程ある。

でも、一期一会の親切ならハードルは低い上に大した労力なしにできる。
労力なしに人から感謝され気持ちよくなれる。(期待した反応が返ってこなかった時はムッとするかもしれんが)
だから、人に親切にしたいと思った時は四の五の考えずにとりあえず自分の心に正直に親切にしたほうがいいんじゃないかと思った。自分が損しないためにも。(なんか優等生っぽい回答でむず痒い)

でもこんなことを書けるってことは、まだ俺に多少なりとも心の余裕があるからなんだろうな。余裕がなきゃこういう結論には至らない。