人は何のために生きるのか?
多分それは幸せになるためだと思う。
幸福を追求するためだと思う。
幸福を維持するためだと思う。
自ら進んで不幸になりたいと思う人間はいないだろう。
だからとりあえず
女にモテたいとか金持ちになりたいという俗な欲も認められたいというような自己承認欲求も行つく先は結局幸福になりたいということなんだろう。
その目的実現のために自分の利益を最大化するために行動するはず。
これは当たり前かも知れない。
だが様々なノイズに忙殺されているとおかしくなるかもしれない。
幸せに気づいていない人もいるだろう。後で不幸せになって振り返って気がつくみたいな。失って大切さが身にしみるとかあるし。
特に不幸せな中に生きている人はこの辺のところが何がなんだかよくわかっていないんじゃなかろうか。
しかしその中で俺はベクトル的には自ら進んで不幸に向かっている気がする。
ただそれは一般的なもの。
仕事の充実とか出世とか恋人とか結婚とか子育てとかそういうのをもう得られないというのは普通の人の感覚からすれば不幸せだろう。
俺もそういう感覚で自分の人生を捉えるとどう考えても不幸になってしまう。
この1年街で幸せそうにしているカップル・ファミリーへの恨み節もそういう一般人の感覚との照らし合わせによって生み出されたものだ。
だから俺は不幸回避手段として別の形の幸せを見つけ出そうと模索している。
まず、一般の幸せの排除から始まる。
これは引きこもり同然の生活をして一人でできる楽しみを見つけることができれば可能。
逆に引きこもりができない人は無理だろう。
どうしても外部の刺激に晒される。それらに常にあらがっていかなければならない。
そしてそれは幸か不幸かで言えば不幸。無理せず分相応の相手と懇ろになるのが手っ取り早い。(男女関係なくプライベートで付き合ったことないんで想像だが)
俺は外からの刺激を遮断する道を選択した。
一生ぼっちで生きていくと宣言したのは1ヶ月位前のことだろうか。
ふっきれてからというものの地元ショッピングモール内でカップルなんかを観ても、この人達の選択した幸せの形はこうなんだ、俺とは相容れないなと思うだけだ。
ヤキモキすることもない。
ただ日に日に鬱に近づいているような気がしている。
だから加藤純一や緑で大笑いすることも忘れてはいけない。
この人達がいてくれてよかった。
俺が選択した生主。
他の人は贔屓のお笑い芸人やYoutuberでも観て大笑いすればいい。
今はまだ幸せな道(将来の収入含め)を模索中だけど道中もそれなりに楽しい。
このまま行くと奈落の底だから好きなことで稼いでいきたいという気持ちはあるが、意外と幅が狭い。もうタレントしか道はないのか。ブロガーもすごいアフィリエイターもYoutuberも生主も皆タレントだ。しかしタレント性皆無の人間には険しい道程になる。
やっぱどこかで他人と接触して一皮剥けないといかないのかね。ナマポ以外で。
俺はどうしてこういう生き方しかできないんだと思ってたけど、治らないんだからしゃーない。手持ちでやっていくさ。